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原文
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作成日 2004年(平成16年)7月から11月 |
子曰、仁遠乎哉。我欲仁、斯仁至矣。
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〔 読み下し 〕 |
子日わく、仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯に仁至る。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「仁とは人から遠く離れた所にあるものだろうか。いやそうではない。仁とは元々誰の心にも宿っているもので、自分が仁であろうと欲すれば、その身そのまま仁に至ることができるのだ」と。
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〔 解説 〕 |
全ての種子に胚乳(仁)があるように、すべての人間に仁の心が宿っていると孔子は云う。ここで云う仁とは、神性或は仏性つまり、神仏と同じ心と考えて良いでしょう。この章は、仏教で云う所の「一切衆生悉仏性」と同じことを云っているんですね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「相手を思いやることはそんなに難しいものだろうか?いやそうではない!何ごとも相手の身になって考えてみれば、思いやりの気持は自然に湧いて来る。相手の身になって考えれば、冷たくしたり意地悪したりなど、
できるものではないんだよ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
最近あまり使われなくなりましたが、相手の気持を推し量ることを「忖度(そんたく)する」と云います。忖度した後どうするかと云えば、「配慮する」つまり、心を配る訳ですね。忖度も配慮も思いやりの一つですが、もっと大切なことは、忖度したことも配慮したこともケロッと忘れてしまうことです。何も大それたことをした訳ではない、当たり前のことをしただけなんですから。
仁とは与えっ放し・与え尽くす愛のことですから、見返りを求める愛は仁とは云いません。見返りを求める愛は、そうですねえ、「御為倒し(オタメゴカシ)」と云うんですね。人からしてもらったことは忘れてはいかんけれども、人にしてやったことは、さっさと忘れた方がいいね。
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