述而第七 179

上へ


原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、仁遠乎哉。我欲仁、斯仁至矣。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(じん)(とお)からんや。(われ)(じん)(ほっ)すれば、(ここ)(じん)(いた)る。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「仁とは人から遠く離れた所にあるものだろうか。いやそうではない。仁とは元々誰の心にも宿っているもので、自分が仁であろうと欲すれば、その身そのまま仁に至ることができるのだ」と。
 
〔 解説 〕

全ての種子に胚乳(仁)があるように、すべての人間に仁の心が宿っていると孔子は云う。ここで云う仁とは、神性或は仏性つまり、神仏と同じ心と考えて良いでしょう。この章は、仏教で云う所の「一切衆生悉仏性」と同じことを云っているんですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「相手(あいて)(おも)いやることはそんなに(むずか)しいものだろうか?いやそうではない!(なに)ごとも相手(あいて)()になって(かんが)えてみれば、(おも)いやりの気持(きもち)自然(しぜん)()いて()る。相手(あいて)()になって(かんが)えれば(つめ)たくしたり意地悪(いじわる)したりなど、 できるものではないんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕

最近あまり使われなくなりましたが、相手の気持を推し量ることを「忖度(そんたく)する」と云います。忖度した後どうするかと云えば、「配慮する」つまり、心を配る訳ですね。忖度も配慮も思いやりの一つですが、もっと大切なことは、忖度したことも配慮したこともケロッと忘れてしまうことです。何も大それたことをした訳ではない、当たり前のことをしただけなんですから。

仁とは与えっ放し・与え尽くす愛のことですから、見返りを求める愛は仁とは云いません。見返りを求める愛は、そうですねえ、「御為倒し(オタメゴカシ)」と云うんですね。人からしてもらったことは忘れてはいかんけれども、人にしてやったことは、さっさと忘れた方がいいね。
 

述而第七 178 述而第七 179 述而第七 180
新論語トップへ