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原文
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作成日 2004年(平成16年)7月から11月 |
互郷難與言。童子見。門人惑。子曰、與其進也。不與其退也。唯何甚。
人潔己以進、與其潔也。不保其往也。
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〔 読み下し 〕 |
互郷与に言い難し。童子見ゆ。門人惑う。子日わく、其の進むに与するなり。其の退くには与せざるなり。唯何ぞ甚しきや。人、己を潔くして進まば、其の潔きに与せん。其の往は保せざるなり。
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〔 通釈 〕 |
互郷という村は人情風情が劣悪で、まともに話しもできないような所であった。孔子一行がそこを通りかかった時、一人の少年が孔子に面会を求めて来たので、孔子は快く会ってやった。
門人達は、どうしてこんな村の子なんかに会ってやったのだろうかと訝(いぶか)しがった。孔子は、「苟も自ら進歩向上を願って面会にやって来たのだから、会ってやるのは当たり前だろう。
後退堕落を願う者に私は与(くみ)することはできないが、純粋に進歩向上を求めて来る者を、拒む必要がどこにあろうか!そんなにひどいことを云うものじゃない!将来この子がどうなるかはこの子自身の自助努力如何だから、私の保証の限りではない。取り越し苦労はしないことだ」と云った。
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〔 解説 〕 |
「孟子」の尽心章句に「夫れ予(われ)の科(か)を設(もう)くるや、往く者は追わず、来(きた)る者は拒まず。苟も是の心を以て至らば、斯(ここ)に之を授くるのみ・(そもそも私が弟子をとる場合、去る者は追わず来る者は拒まず。苟も自ら学ぼうと志しを立てて来る者は、そのまま誰でも引き受けるのみである)」とありますが、ここで云う「人、己を潔くして進まば、其の潔きに与せん。其の往を保せざるなり」と同じことです。
教育者や指導者は、「去る者は追わず、来る者は拒まず」のスタンスをもっていないと、やって行けないでしょう。新興宗教で「脱会したら地獄に落ちるぞ!」と、去ろうとする者を脅す教祖がいるそうですが、あれはインチキですな。信者じゃなくて教祖本人が落ちるんですよ、地獄にね。
「荘子」の応帝王に「将(おく)らず迎えず、応(おう)じて蔵(ぞう)せず」とあるのも、「去るものは追わず、来る者は拒まず。何事も有るがままに受け入れて固執せず。取り越し苦労はしなさんな!持ち越し苦労もしなさんな!」ということですね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様一行が互郷という村に滞在していた時、一人の少年が「孔子様にお目にかかってお話が聞きたい」と申し出た。ここの村人はみなだらしがなくて嘘つきなので、お供の弟子達は面会させて良いかどうか迷っていたところ、孔子様は「せっかく来たのだからこちらにお通ししなさい!」と云って、快く少年と面会した。少年が喜んで帰った後で孔子様は、「素直に学びたいと思って来る人には、誰だって私は会って話しをする。その人の過去がどうだったとか、将来どうなるかなど心配する必要はない。今この時最善を尽くすことの方が大切なんだよ」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
済んでしまったことをあれこれ思い煩うのを「持ち越し苦労」と云い、将来どうなるか分からないことをあれこれ心配するのを「取り越し苦労」と申します。考えてもどうにもならない事を思い煩う暇があったら、今この時ベストを尽くす!と割り切ってみたらどうでしょうか。
マタイによる福音書でイエスも云っているではないですか、「明日の事を思い煩うな、明日は明日みずから煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」と。これに続けてイエスは、孔子がこの章で弟子達に「唯何ぞ甚だしきや!」と叱ったのと同じような言葉を放っている、「汝等人を裁くな、裁かれざらんが為なり。己が裁く審判(さばき)にて己も裁かれ、己が計る量(はかり)にて己を量らるべし!」と。
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