述而第七 177

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原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、蓋有不知而作之者。我無是也。多聞、擇其善者而從之、多見而識之、
知之次也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(けだ)()らずして(これ)(つく)(もの)()らん。(われ)()()きなり。(おお)()きて、()()(もの)(えら)びて(これ)(したが)い、(おお)()(これ)(しる)すは、()るの(つぎ)なり。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「世の中には、十分な基礎知識がなくても、閃きやインスピレーションだけで自説を創作する人もいるだろう。しかし私はそうはしない。できるだけ多くの事を聞いた上で、その中から善いものだけを択んでこれを手本とする。又、できるだけ多くの書物を読んで、その中からこれはと思うものを覚えておく。これが私のやり方で、知者とは云えないかも知れないが、まあその次くらいの者であろう」と。
 

〔 解説 〕

ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と云ったそうですが、一人の人間が一生のうちで直に体験できる範囲など、たかが知れております。前にも述べましたが、高度な判断を下すには、経験の絶対量が足りないんですね。それを何で補うかと云えば、歴史や古典を学ぶ、つまり、読書による擬似体験を通じて認識力を養って行く訳です。

認識力とは、分かり易く云えば「物事の受け止め方」のことですが、般若心経でいう所の眼・耳・鼻・舌・身・意の「意」に当たります。脳神経科学で云う「脳の認識作用」ですね。ここが
鍛えられておりませんと、判断を誤り、決断が狂ってしまうことになる。

つまり、人間の思考経路は、事象をどのように認識し解釈するか?→それをどのように判断し納得するか?→そしてどのように選択し決断するか?を経て、如何に計画し実行するか?となりますから、五感を通して知覚された物事を受け止める「認識力」が正常に機能しませんと、判断を誤り→決断が狂い→成果が上がらない、となる訳ですね。

孔子が「多く聞きて其の善き者を択んで是に従い、多く見て之を識す」と云ったのは、とても重要なことですね。認識力に劣れば→判断を誤り→決断が狂う、ということでしょう。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「勉強(べんきょう)しなくてもできる()がいる。君達(きみたち)(なか)にもいるだろう?しかし、それが通用(つうよう)するのは小学生(しょうがくせい)(あいだ)だけ。中学(ちゅうがく)高校(こうこう)になると、予習(よしゅう)復習(ふくしゅう)しっかりやらないと授業(じゅぎょう)について()けなくなる。授業(じゅぎょう)について()けなくなると、()ちこぼれてしまう。()ちこぼれは(だれ)のせいでもない、自分(じぶん)自身(じしん)責任(せきにん)だ。()ちこぼれたくなければ、予習(よしゅう)復習(ふくしゅう)をきちんとやりなさい!それをやってから(おお)いに(あそ)びなさい!」と。
 
〔 親御さんへ 〕

落ちこぼれを学校や社会のせいにする人を時々見かけます。何をばかなことを云っているのだろうか?と思いまして、「お子さんが小学生の頃、予習復習の習慣をつけさせましたか?」と聞くと、「本人の自主性に任せていた」と云う。「勉強好きの子供は多くない。むしろ勉強嫌いの子が大多数だが、お宅のお子さんは勉強好きでしたか?」と問うと、「勉強嫌いでした」と答える。「勉強嫌いの子に、強制的にでも予習復習の習慣づけを行なわなかったら、益々勉強をしなくなってしまうのは当たり前だろう。

習慣づけは親の責任、落ちこぼれるかどうかは子供の責任!子供の自主性云々というが、放ったらかしの責任を学校や社会のせいにしてはいかんよ!」と云うと、「失礼な!」といって帰ってしまった。学歴は要らんけれども、学力は必要なんだね、特に小学校・中学校で教わる基礎学力は。だから義務教育になっているんじゃないの。
 

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