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原文
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作成日 2004年(平成16年)7月から11月 |
子曰、蓋有不知而作之者。我無是也。多聞、擇其善者而從之、多見而識之、
知之次也。
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〔 読み下し 〕 |
子日わく、蓋し知らずして之を作る者有らん。我は是れ無きなり。多く聞きて、其の善き者を択びて是に従い、多く見て之を識すは、知るの次なり。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「世の中には、十分な基礎知識がなくても、閃きやインスピレーションだけで自説を創作する人もいるだろう。しかし私はそうはしない。できるだけ多くの事を聞いた上で、その中から善いものだけを択んでこれを手本とする。又、できるだけ多くの書物を読んで、その中からこれはと思うものを覚えておく。これが私のやり方で、知者とは云えないかも知れないが、まあその次くらいの者であろう」と。
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〔 解説 〕 |
ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と云ったそうですが、一人の人間が一生のうちで直に体験できる範囲など、たかが知れております。前にも述べましたが、高度な判断を下すには、経験の絶対量が足りないんですね。それを何で補うかと云えば、歴史や古典を学ぶ、つまり、読書による擬似体験を通じて認識力を養って行く訳です。
認識力とは、分かり易く云えば「物事の受け止め方」のことですが、般若心経でいう所の眼・耳・鼻・舌・身・意の「意」に当たります。脳神経科学で云う「脳の認識作用」ですね。ここが鍛えられておりませんと、判断を誤り、決断が狂ってしまうことになる。
つまり、人間の思考経路は、事象をどのように認識し解釈するか?→それをどのように判断し納得するか?→そしてどのように選択し決断するか?を経て、如何に計画し実行するか?となりますから、五感を通して知覚された物事を受け止める「認識力」が正常に機能しませんと、判断を誤り→決断が狂い→成果が上がらない、となる訳ですね。
孔子が「多く聞きて其の善き者を択んで是に従い、多く見て之を識す」と云ったのは、とても重要なことですね。認識力に劣れば→判断を誤り→決断が狂う、ということでしょう。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「勉強しなくてもできる子がいる。君達の中にもいるだろう?しかし、それが通用するのは小学生の間だけ。中学・高校になると、予習復習をしっかりやらないと授業について行けなくなる。授業について行けなくなると、落ちこぼれてしまう。落ちこぼれは誰のせいでもない、自分自身の責任だ。落ちこぼれたくなければ、予習復習をきちんとやりなさい!それをやってから大いに遊びなさい!」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
落ちこぼれを学校や社会のせいにする人を時々見かけます。何をばかなことを云っているのだろうか?と思いまして、「お子さんが小学生の頃、予習復習の習慣をつけさせましたか?」と聞くと、「本人の自主性に任せていた」と云う。「勉強好きの子供は多くない。むしろ勉強嫌いの子が大多数だが、お宅のお子さんは勉強好きでしたか?」と問うと、「勉強嫌いでした」と答える。「勉強嫌いの子に、強制的にでも予習復習の習慣づけを行なわなかったら、益々勉強をしなくなってしまうのは当たり前だろう。
習慣づけは親の責任、落ちこぼれるかどうかは子供の責任!子供の自主性云々というが、放ったらかしの責任を学校や社会のせいにしてはいかんよ!」と云うと、「失礼な!」といって帰ってしまった。学歴は要らんけれども、学力は必要なんだね、特に小学校・中学校で教わる基礎学力は。だから義務教育になっているんじゃないの。
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