述而第七 169

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原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、我非生而知之者、好古敏以求之者也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(われ)()まれながらにして(これ)()(もの)(あら)ず。(いにしえ)(この)み、(びん)にして(もっ)(これ)(もと)めたる(もの)なり。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「私は生まれながらにものの道理を知っていた訳ではない。古の聖賢の書を読み、一途に真理を探求した結果なのだ」と。
 
〔 解説 〕

生まれながらにしてものの道理を知った者など居ないでしょう。「量が質をつくる」と云いまして、経験の量が質を高めて行くのはまぎれもない事実であります。ただ、一人の人間が一生のうちで直接経験できる数など、たかが知れておりますから、未体験ゾーンで高度な判断を下すには、経験の絶対量が足りません。これを何で補うかと云えば、歴史や古の諸聖賢の書を読むことによって、つまり、実体験ではないけれども、読書による擬似体験によって補う他はありません。

以前心理学者・金井まゆみ先生の「イメージトレーニングの原理」を紹介しましたが、実際に体験しなくとも、イメージトレーニングすることによって、実際に体験したと同じ脳の回路が形成されることが科学的に分かっている訳ですから、読書による擬似体験でも、実体験と同じ思考回路が形成されることになる。

人類の英知が蓄えられるようになったのは、文字の発明によってでありますし、時代を超え地域を超えて英知が伝達されるようになったのも、文字情報として蓄積されるようになったからです。人間が思考による擬似体験ができるのは、文字情報として蓄えられているものを読むからなんですね。

サルと人間の決定的な違いは、文字情報を介して思考の擬似体験ができるか否か、ではないでしょうか。ですから、読書をするのが人間で、読書をしないのはサル及びサル化した人間なんですね。最低でも、毎月挙げる五冊の推薦図書くらいは呼んでくださいね、サル化したくなければ。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(うま)れつき(なん)でも()っている(ひと)など一人(ひとり)いない。一所懸命(いっしょけんめい)勉強(べんきょう)するから、知識(ちしき)豊富(ほうふ)になるんだよ。君達(きみたち)(なか)にも博士(はかせ)ってあだ()()いるだろう?その()よく(ほん)()んでいないかい?そう!物知(ものし)博士(はかせ)はみんな読書家(どくしょか)だ。読書(どくしょ)によって豊富(ほうふ)知識(ちしき)(たくわ)える。お(とう)さんお(かあ)さんも、おじいちゃんおばあちゃんも、みんなそうして物知(ものし)りになったんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕
子供にはこう云っておきながら、親が全くの読書嫌いではちょっと困るかな?でもご安心!ここ迄こうして子供論語を読んで来られたんだから、決して読書嫌いなのではありません。論語一巻は、人生哲学書千巻以上の中身がありますから、誠に効率の良い読書をしたことになる。

しかし、いつ迄もこれではいけません。子は親の姿を真似て育つ生きものですから、親が読書嫌いでは子供も必ず読書嫌いになる。週に一回「家族読書会」でも開いて、半日くらい強制的にみんなで読書する時間を作ってみてはいかがでしょうか?そうでもしないと、一生読みませんからね。

その日パパはゴルフもパチンコもダメ!ママはテニスもショッピングもダメ!夕食はジイサン・バアサンを呼んで、ステーキでも焼肉でも寿司でも豚カツでも、何でも奢らせたらいいではないですか!?ジジババは、孫の為にお金を使いたくてうずうずしているんですから。
 
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