述而第七 160

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原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子謂顔淵曰、用之則行、舎之則藏。唯我與爾有是夫。子路曰、
行三軍則誰與。子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也。

必也臨事而懼、好謀而成者也。
 
〔 読み下し 〕
()(がん)(えん)()いて(のたま)わく、(これ)(もち)うれば(すなわ)(おこ)ない、(これ)()つれば(すなわ)(かく)る。(ただ)(われ)(なんじ)(これ)()るかな。()()(いわ)く、三軍(さんぐん)()らば(すなわ)(だれ)(とも)にせん。()(のたま)わく、暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)()して()いなき(もの)は、(われ)(とも)にせざるなり。(かな)ずや(こと)(のぞ)みて(おそ)れ、(はかりごと)(この)みて()さん(もの)なり。
 
〔 通釈 〕
孔子が顔淵に向かって、「登用されれば世に出て大いに働き、お役ご免になれば潔く引っ込んで世間から隠れる。このように、出処進退の宜しきを得ているのは、まずお前と私くらいのものだろう」と謂った。

之を側で聞いていた子路が口を挟んで、「もし先生が三軍の総大将になられたら、誰を副官に任命しますか?」と問うた。孔子は、「虎と素手で格闘したり黄河を泳いで渡ろうとしたりと無茶をやらかして、それで死んでも悔いはないというような無鉄砲な者とは、行動を共にできないな。

もし与(く)むなら、事前に綿密な作戦計画を練って慎重に事に臨み、知略で敵を負かしてしまうような思慮深い人物だな!?」と答えた。
 
〔 解説 〕

孔子が顔淵ばかり褒めるものですから、一本気の子路がやきもちを焼いて口を挟んだのでしょう。普段から、勇猛心では誰にも引けを取らないと自負している子路としては、「それはやっぱりお前だな!」という答えを期待していたのでしょうが、「無鉄砲な奴とは組めない!」と一蹴されてしまった。

子路は元任侠に生きるヤクザ者でしたが、孔子はそういう気性の子路に対して、「侠気(おとこぎ)だけでは、ずる賢い人間にしてやられるぞ!もうちょっと思慮深くなりなさい!!」と、言外に伝えたかったのでしょう。尚、この章から「用舎行蔵(ようしゃこうぞう)」と、「暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)の勇(ゆう)」という二つの成語が出ました。用舎行蔵とは、出処進退の宜しきを得るの意、暴虎馮河の勇とは、無鉄砲な勇気の意として今でも時々使われますね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)弟子(でし)(がん)(えん)()かって、「(えら)ばれて任務(にんむ)をおおせつかった以上(いじょう)は、先頭(せんとう)()って精一杯(せいいっぱい)やる。任務(にんむ)()われば肩書(かたがき)返上(へんじょう)して()()く。(すす)(とき)退(しりぞ)(とき)(いさぎよ)いのは、(わたし)(きみ)くらいのものかな」とおっしゃった。この会話(かいわ)(そば)()いていた()()は、自分(じぶん)才能(さいのう)(みと)めてもらいたいと(おも)って、「もし先生(せんせい)軍隊(ぐんたい)総大将(そうだいしょう)をおおせつかったら、(だれ)副大将(ふくたいしょう)(えら)びますか?」と、当然(とうぜん)自分(じぶん)指名(しめい)してくれるものと期待(きたい)して質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は、「(とら)素手(すで)格闘(かくとう)すれば()(ころ)されてしまうし、大河(たいが)(およ)いで(わた)ろうとすれば(おぼ)()んでしまう。こういうのを自殺(じさつ)行為(こうい)()う。にもかかわらず、自殺(じさつ)行為(こうい)勇気(ゆうき)勘違(かんちがい)いしている(もの)とは、(あぶ)なっかしくてコンビを()めないな。どうせ()むなら、(たたか)(まえ)相手(あいて)()かしてしまうような、知恵(ちえ)のある人物(じんぶつ)とコンビを()みたいね」と(こた)えた。
 
〔 親御さんへ 〕

理非曲直も考えず猪突猛進する勇気を「蛮勇」と云いますが、蛮勇の喩えとして孔子は「暴虎(ぼうこ)・素手で虎を打つような行為」と「馮河(ひょうが)・黄河を泳いで渡るような行為」を挙げております。虎を捕まえようと思ったら罠を仕掛ければ良いではないか、黄河を渡ろうと思ったら舟を使えば良いではないか、知恵を使えば危険な目に遇わずに目的を遂げられる。命を粗末にするものじゃない!と子路に云いたかったのでしょう。

義の伴わない勇は、気違いに刃物で変質者の勇となる。礼の伴わない勇は、節度のない狼藉者の勇となる。知の伴わない勇は、ずる賢い人間に騙されて愚か者の勇となる。信の伴わない勇は、一貫性のない裏切り者の勇となる。勇気は人として欠かすことのできない大切な資質ですが、義・礼・知・信を欠くと、忽ち自分も人も痛め付ける凶器に変貌してしまいます。

まあ本当の勇とは、義の柱・礼の柱・知の柱・信の柱に、中庸の屋根を乗せる為の「梁」のようなものと考えて良いでしょう。仁の土台がしっかりしていないと、大きな柱を建てられませんし、柱にがっちりと組み込まれた梁がないと、大きな屋根は乗せられません。進むにも勇気が要るし、退くにも勇気が要る。決断する時にも勇気が要るし、実行する時にも勇気が要る。勇気の向け場を誤らない為にも、義・礼・知・信の柱にがっちりと組み込んでおきたいものです。
 

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