述而第七 155

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原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、甚矣吾衰也。久矣吾不復夢見周公。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(はなはだ)しきかな、()(おとろ)えたるや。(ひさし)しきかな、(われ)(また)(ゆめ)(しゅう)(こう)()ず。
 
〔 通釈 〕
孔子云う「私も随分衰えたものだなあ。この所ずっと周公の夢を見ていない」と。
 
〔 解説 〕

周公 姓は姫(き) 名は旦(たん)、周の文王の子で武王の弟。太公望と共に周創建を果たし、周の礼制を定めた。魯の始祖で、孔子が理想の人物像と仰いだ人。殷代迄は天子の継承は兄弟相続であったが、武王亡き後自ら天子に立とうとせず、武王の息子成王を天子に立ててこれを補佐した。これにより、それ迄の兄弟相続から父子相続に制度が改められた。

周公は立派な人物だったようで、史記魯周公世家に「一沐(いちもく)に三度(みたび)
(はつ)を握り、一飯(いっぱん)に三度哺(ほ)を吐く」という故事が紹介されております。

周公は幼い成王を補佐しなければならない為、自ら魯には行けない。そこで息子の伯禽(はくきん)に魯公を命じますが、出立に際し伯禽を戒めて次のように云った。

「私は文王の子、武王の弟、成王の叔父であり、私の身分は天下に於いて決して賤しくは
ない。しかしながら、私は一度髪を洗う間にも三度髪を掴みあげて洗髪を中断し、一度の食事の間にも三度口の中の食べ物を吐き出して食事を中断して客の相手をしたが、それでも天下の人材を取り逃がすのではないかと心配であった。そなたは魯に行っても、慎み深く、人に対して傲りたかぶることのないように」と。

この故事から、賢者を招聘すること(礼を尽くして手厚く迎え入れること)を「哺を吐き髪を握る・吐(と)哺(ほ)握(あく)髪(はつ)」というようになりますが、今は殆ど使われなくなりましたから、
誰も知らんでしょうこんな言葉は。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(わたし)もずいぶん(とし)()いたものだ。(わたし)尊敬(そんけい)する(しゅう)(こう)(さま)(ゆめ)をここしばらく()ていない。以前(いぜん)(ゆめ)(なか)でいろいろご指導(しどう)いただいたのだが、残念(ざんねん)だなあ」と。
 
〔 親御さんへ 〕
神や聖人のお告げがあるような夢を「霊夢(れいむ)」と申しますが、孔子は度々周公の霊夢を見ていたようですね。周公は孔子より700年程前の人物で、賢人を積極的に登用し、人民の安寧に心を砕いた立派な人でした。
 
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