雍也第六 141

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原文                    作成日 2004年(平成16年)4月から7月
子曰、中人以上、可以語上也。中人以下、不可以語上也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、中人(ちゅうじん)以上(いじょう)には、(もっ)(かみ)(かた)るべきなり。中人(ちゅうじん)以下(いか)には、(もっ)(かみ)(かた)るべからざるなり。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「中根以上の人には、高尚なことを語っても理解されようが、下根の人には、高尚なことを語っても中々理解されない」と。
 
〔 解説 〕

孔子は季氏第十六で、

  生まれながらにして之を知る者・・・・・最上根。
  学びて之を知る者・・・・・・・・・・・上根。
  困(くる)しみて之を学ぶ者・・・・・・中根。
  困しみて学ばざる者・・・・・・・・・・下根。 と述べている。

「教え有りて類なし」(人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき上下の差があるものではない)、とするのが孔子の人間観ですが、多くの弟子達を見て来て(晩年には弟子の数三千人とも云われる)、自ら学ぼうとしない者はどうしようもない!と悟ったのでしょう。上根・中根・ 下根とは元々仏教用語ですが、根とは機根(資質)の意味です。

まあ分かり易く云えば、上根とは、云われなくても分かる人。中根とは、云われれば分かる人。下根とは、云われても分からないし、又分かろうともしない人。と考えて良いでしょう。これは
学歴や血筋とは殆ど関係ないようです。

上根・中根・下根などとは、人を差別する物言いで失礼じゃないか!と思われるかも知れ
ませんが、残念ながら下根の人は確かに存在します。云われても分からないし、分かろうともしない人は。差別する必要はありませんが、区別は必要です。

大人と子供では、ハンデがあるのは当たり前、プロとアマでは、ハンデがあるのは当たり前ですからね。丁度そのようなものなんです、上根と下根は。だがしかし、孔子は決して下根の人を見捨てたり、軽んじたりはしなかった。寧ろこういう人にこそ、思いやりと躾が必要なのだと考えていたようです。次章に登場する樊遅(はんち)などは、どうも下根の人だったようですからね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(まな)意欲(いよく)のある(ひと)には、(むず)しいことを(おし)えても()()いがあるが、(まな)()(よく)のない(ひと)(むずか)しいことを(おし)えても、(ねこ)小判(こばん)だね」と。
 
〔 親御さんへ 〕

孔子とほぼ同じ時代に生きた老子は、上根・中根・下根を次のように云っている。

 上士(じょうし)は道を聞いては勤めて之を行わんとし、
   (上根の人は真理を聞くと努力して実行しようとする)

 中士(ちゅうし)は道を
いては存するが若(ごと)く亡(な)きが若く、
   (中根の人は真理を聞くと半信半疑で一歩間を置く)

 下士(かし)は道を聞いては大いに之を笑う
   (下根の人は真理を聞いても、そんなことがあるものかとあざ笑う) 

そして次に留めを刺します、「笑われざれば、以て道とするに足らず」
(下根の人にあざ笑われるくらいでなければ、本物の真理とは云えない)と。

学問の目的は、真理の探究・分からないことの解明にある訳ですが、真理探究に
全く興味のない人、分からないことを分かろうともしないで平気でいられる人は「下根」ということでしょうか。ああ皆さんは心配いりません。そもそも論語を学んでみようなどという気は起こりませんからね、下根の人は。論語をここ迄学んで来られたということは、中根以上であることの証です。もっと自信をを持っていいですよ。
 

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