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原文
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作成日 2004年(平成16年)4月から7月 |
子曰、中人以上、可以語上也。中人以下、不可以語上也。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、中人以上には、以て上を語るべきなり。中人以下には、以て上を語るべからざるなり。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「中根以上の人には、高尚なことを語っても理解されようが、下根の人には、高尚なことを語っても中々理解されない」と。
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〔 解説 〕 |
孔子は季氏第十六で、
生まれながらにして之を知る者・・・・・最上根。
学びて之を知る者・・・・・・・・・・・上根。
困(くる)しみて之を学ぶ者・・・・・・中根。
困しみて学ばざる者・・・・・・・・・・下根。 と述べている。
「教え有りて類なし」(人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき上下の差があるものではない)、とするのが孔子の人間観ですが、多くの弟子達を見て来て(晩年には弟子の数三千人とも云われる)、自ら学ぼうとしない者はどうしようもない!と悟ったのでしょう。上根・中根・
下根とは元々仏教用語ですが、根とは機根(資質)の意味です。
まあ分かり易く云えば、上根とは、云われなくても分かる人。中根とは、云われれば分かる人。下根とは、云われても分からないし、又分かろうともしない人。と考えて良いでしょう。これは学歴や血筋とは殆ど関係ないようです。
上根・中根・下根などとは、人を差別する物言いで失礼じゃないか!と思われるかも知れませんが、残念ながら下根の人は確かに存在します。云われても分からないし、分かろうともしない人は。差別する必要はありませんが、区別は必要です。
大人と子供では、ハンデがあるのは当たり前、プロとアマでは、ハンデがあるのは当たり前ですからね。丁度そのようなものなんです、上根と下根は。だがしかし、孔子は決して下根の人を見捨てたり、軽んじたりはしなかった。寧ろこういう人にこそ、思いやりと躾が必要なのだと考えていたようです。次章に登場する樊遅(はんち)などは、どうも下根の人だったようですからね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「学ぶ意欲のある人には、難しいことを教えても張り合いがあるが、学ぶ意欲のない人に難しいことを教えても、猫に小判だね」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
孔子とほぼ同じ時代に生きた老子は、上根・中根・下根を次のように云っている。
上士(じょうし)は道を聞いては勤めて之を行わんとし、
(上根の人は真理を聞くと努力して実行しようとする)
中士(ちゅうし)は道を聞いては存するが若(ごと)く亡(な)きが若く、
(中根の人は真理を聞くと半信半疑で一歩間を置く)
下士(かし)は道を聞いては大いに之を笑う
(下根の人は真理を聞いても、そんなことがあるものかとあざ笑う)
そして次に留めを刺します、「笑われざれば、以て道とするに足らず」
(下根の人にあざ笑われるくらいでなければ、本物の真理とは云えない)と。
学問の目的は、真理の探究・分からないことの解明にある訳ですが、真理探究に
全く興味のない人、分からないことを分かろうともしないで平気でいられる人は「下根」ということでしょうか。ああ皆さんは心配いりません。そもそも論語を学んでみようなどという気は起こりませんからね、下根の人は。論語をここ迄学んで来られたということは、中根以上であることの証です。もっと自信をを持っていいですよ。
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