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原文
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作成日 2004年(平成16年)4月から7月 |
季氏使閔子騫爲費宰。閔子騫曰、善爲我辭焉。如有復我者、
則吾必在汶上矣。
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〔 読み下し 〕 |
季氏、閔子騫をして費の宰たらしめんとす。閔子騫日わく、善く我が為に辞せよ。如し我を復する者あらば、則ち吾は必ず汶の上に在らん。
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〔 通釈 〕 |
魯の大夫李氏が、門人閔子騫を費の代官」に登用しようとして使者を遣わした。閔子騫は、「私にはそのような才能はありません。どうぞご家老様に鄭重にお断り申し上げて下さい。それでももし私に任官せよと再度仰せつけられるようでしたら、私は斉との国境にある汶水のほとりに逃げて行く所存です」と云った。
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〔 解説 〕 |
閔子騫 姓は閔 名は損 字は子騫。十哲の一人で徳行の人。先進第十一で、「孝なるかな閔子騫」と、孔子をして云わせしめる程の親孝行者であった。孔子の弟子達は、いずれも出処進退のはっきりした人物ばかりですが、中でも閔子騫は、良いものは良い悪いものは悪いと、はっきりし過ぎる傾向があったようです。今で云う潔癖症ですね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
魯の国の大臣季氏が、弟子の閔子騫を費という町の代官に採用しようとして、使いの者をよこした。閔子騫は、「私は政治は苦手でお引受けすることができません。どうぞ私に代ってお断り申し上げて下さい。それでも再度お命じになるようでしたら、私は斉の国に亡命するつもりです」と云った。
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〔 親御さんへ 〕 |
閔子騫は潔癖な人で、白黒をはっきりさせないと気が済まない性格だったようです。この当時三桓(孟孫・叔孫・季孫の御三家)が専横を極めておりましたから、季孫氏の領地である費の代官を務めることは、閔子騫の潔癖な性格が許さなかったのかも知れません。費くらいの小邑(しょうゆう・小さな町)など、いくらでも治められる人ですから。
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