雍也第六 126

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原文                   作成日 2004年(平成16年)4月から7月
子謂仲弓曰、犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸。
 
〔 読み下し 〕
()(ちゅう)(きゅう)()いて(のたま)わく、()(ぎゅう)()(あか)くして()(つの)あらば、(もち)うること()からんと(ほっ)すと(いえど)も、山川(さんせん)()(これ)()てんや。
 
〔 通釈 〕
孔子が仲弓を評して、「たとえまだら牛(雑種)の子であっても、赤毛で立派な角があれば、人が祭の犠牲(いけにえ)に用いなくとも山川の神々が放っておく筈がない」と云った。
 
〔 解説 〕

この文章は少し補足説明をしないと、意味が通じないでしょう。仲弓の父親は卑しい身分であり、且つ品行も宜しくなかったようで、仲弓はこれに大層心を痛めていた。又、当時は出自(しゅつじ・血筋)によって殆ど身分が決まってしまう社会制度でしたから、周囲も仲弓を卑しい身分の子としてしか見ていなかった。

仲弓は徳行の人として後に十哲の一人に挙げられる程の大人物ですが、孔子は既にそれを見抜いていたのでしょう、「人間の偉大さは出自や身分で決まるものではない。どんな身分に生まれようとも、本人の努力次第で神の召命を受る程の大人物になれるのだ!」と、弟子達の前で語ったのではないかと思います。仲弓がその場に居合わせたかどうかは分かりませんが、「ちゃんと神様は見ているよ!くよくよせずに頑張りなさい!」という孔子の真意は、充分伝わったのではないでしょうか。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)弟子(でし)(ちゅう)(きゅう)に、「たとえ身分(みぶん)(ひく)く、(おや)がだらしない(ひと)であったとしても、人格(じんかく)(べつ)なのだから本人(ほんにん)努力(どりょく)次第(しだい)でいくらでも立派(りっぱ)人物(じんぶつ)になれるものだ。(きみ)のお(とう)さんは(いや)しい(ひと)だと世間(せけん)()うが、(きみ)人生(じんせい)(きみ)自身(じしん)責任(せきにん)だ。お(とう)さんの責任(せきにん)ではない。(きみ)自身(じしん)がしっかりしていれば、(まわ)りの(ひと)(なん)()おうと()にすることはない。神様(かみさま)がちゃんと()ていて(くだ)さるのだから、(だれ)()ていなくても、神様(かみさま)()ずかしくない(おこな)いをしなさい!」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

子供の頃悪さをすると、「誰もみていなくても神様がちゃんと見ている。神様に恥ずかしいことはするな!」と母親に叱られたものですが、「神様なんてどこにいるんだ!?」と口答えすると、「ここだよ!!」と云って人差し指で心臓の上をつつかれたことを思い出します。こうされると、不思議に反抗出来なくなるものなんですね。

「人は皆神の子」ならば、何で悪いことをするのか?と、疑問に思われるのかも知れませんが、神の子であることを忘れた時に悪いことをするんですね。「誰も見ていなくても、心の中で神様がちゃんと見ている」ってことを忘れちゃいけませんね。「イヤ俺は違う、両親の子だ!人の子だ!」と言い張ったってダメなんですよ。ご両親も神の子なんだから。
 

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