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原文
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作成日 2004年(平成16年)4月から7月 |
原思爲之宰。與之粟九百。辭。子曰、毋。以與爾隣里郷黨乎。
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〔 読み下し 〕 |
原思、之が宰たり。之に粟九百を与う。辞す。子曰わく、毋かれ。以て爾が隣里郷党に与えんか。
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〔 通釈 〕 |
孔子が魯の司法長官となった時、門人の原思を執事に登用して俸給九百石を与えた。これに対して原思は、「多過ぎます」と辞退した。孔子は、「遠慮するな。もし余ったら隣近所に配ってやったらいいではないか」と云った。
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〔 解説 〕 |
原思 姓が原 名は憲 字は子思。清貧の人であったらしく、史記の列伝には次のようなエピソードが載っております。
「孔子が死んだ後、原憲はそのまま沼沢地に隠れ住んだ。子貢が衛の宰相になって、四頭立ての馬車に乗り騎馬を従え藜(あかざ)の茂みをかき分け、貧しい住処(すみか)に分け入って原憲を訪問した。
原憲は破れた上衣と冠をかき合わせて対面した。子貢は軽蔑したように云った『先生はご病気ですか?』。原憲は『私は師からこう聞いている。財がないのを貧と云い、道を学んで行う能わざる者を病(へい)と云うと。私は貧ではあるが病ではない』と答えた。
子貢は恥ずかしくなり、心が晴れないままそこを立ち去った。子貢は終生その時の発言を恥じたと云う」と。尚前章と本章を合わせて一章とするケースもありますが、テキストに従いました。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様が魯国の法務大臣になった時、弟子の原思を秘書に採用して、年俸九百万円を与えようとした。原思は「多過ぎます!」と云って辞退した。これに対して孔子様は、「遠慮するな。余るようだったら、近所の恵まれない人達に施してあげなさい!」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
富は元々価値中立的なもので、善でも悪でもありませんが、「得るなら得るに足る義、与えるなら与えるに足りる義がある!」とするのが孔子の考え方であったようです。
人に施しをするというのは利他行の一つ、つまり、仁の実践にほかならないわけですが、仏教ではこれを「布施」と云って、「財施(ざいせ)・財物を施し与える」、「法施(ほうせ)・仏法を説き聞かせる」、「無畏施(むいせ)・無知から来る恐怖を取り除く」の三つが代表的な布施とされております。
何も金品を施し与えるだけが布施ではない訳ですから、笑顔でムードを和ませる「顔施(がんせ)」、芸で人々を楽しませる「芸施(げいせ)」、ユーモアで笑いを誘う「ユーモア施」、技術や知識を供与する「ノウハウ施」等々、その気になれば、心掛け一つで人様のお役に立てるような「布施」はいくらでもありそうですね。
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