雍也第六 125

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原文                  作成日 2004年(平成16年)4月から7月
原思爲之宰。與之粟九百。辭。子曰、毋。以與爾隣里郷黨乎。
 
〔 読み下し 〕
原思(げんし)(これ)(さい)たり。(これ)(ぞく)九百(きゅうひゃく)(あた)う。()す。()(のたま)わく、()かれ。(もっ)(なんじ)隣里(りんり)郷党(きょうとう)(あた)えんか。
 
〔 通釈 〕
孔子が魯の司法長官となった時、門人の原思を執事に登用して俸給九百石を与えた。これに対して原思は、「多過ぎます」と辞退した。孔子は、「遠慮するな。もし余ったら隣近所に配ってやったらいいではないか」と云った。
 
〔 解説 〕

原思 姓が原 名は憲 字は子思。清貧の人であったらしく、史記の列伝には次のようなエピソードが載っております。

「孔子が死んだ後、原憲はそのまま沼沢地に隠れ住んだ。子貢が衛の宰相になって、四頭立ての馬車に乗り騎馬を従え藜(あかざ)の茂みをかき分け、貧しい住処(すみか)に分け入って原憲を訪問した。

原憲は破れた上衣と冠をかき合わせて対面した。子貢は軽蔑したように云った『先生はご病気ですか?』。原憲は『私は師からこう聞いている。財がないのを貧と云い、道を学んで行う能わざる者を病(へい)と云うと。私は貧ではあるが病ではない』と答えた。

子貢は恥ずかしくなり、心が晴れないままそこを立ち去った。子貢は終生その時の発言を恥じたと云う」と。尚前章と本章を合わせて一章とするケースもありますが、テキストに従いました。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)()(こく)法務(ほうむ)大臣(だいじん)になった(とき)弟子(でし)原思(げんし)秘書(ひしょ)採用(さいよう)して、年俸(ねんぽう)九百(きゅうひゃく)(まん)(えん)(あた)えようとした。原思(げんし)は「(おお)()ぎます!」と()って辞退(じたい)した。これに(たい)して孔子(こうし)(さま)は、「遠慮(えんりょ)するな。(あま)るようだったら、近所(きんじょ)(めぐ)まれない(ひと)(たち)(ほどこ)してあげなさい!」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

富は元々価値中立的なもので、善でも悪でもありませんが、「得るなら得るに足る義、与えるなら与えるに足りる義がある!」とするのが孔子の考え方であったようです。

人に施しをするというのは利他行の一つ、つまり、仁の実践にほかならないわけですが、仏教ではこれを「布施」と云って、「財施(ざいせ)・財物を施し与える」、「法施(ほうせ)・仏法を説き聞かせる」、「無畏施(むいせ)・無知から来る恐怖を取り除く」の三つが代表的な布施とされております。

何も金品を施し与えるだけが布施ではない訳ですから、笑顔でムードを和ませる「顔施
(がんせ)」、芸で人々を楽しませる「芸施(げいせ)」、ユーモアで笑いを誘う「ユーモア施」、技術や知識を供与する「ノウハウ施」等々、その気になれば、心掛け一つで人様のお役に立てるような「布施」はいくらでもありそうですね。
 

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