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原文
〕 作成日 2004年(平成16年)2月から3月 |
子謂子貢曰、女與回也孰愈。對曰、賜也何敢望回。回也聞一以知十。
賜也聞一以知二。子曰、弗如也。吾與女弗如也。
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〔 読み下し 〕 |
子、子貢に謂いて日わく、女と回と孰れか愈れる。対えて日わく、賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて十を知る。賜や一を聞いて二を知る。子日わく、如かざるなり。吾と女と如ざるなり。
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〔 通釈 〕 |
孔子が子貢に、「お前と顔回とどちらが優まさると思うか?」と尋ねた。子貢は、「どうして私ごときが顔回と比肩できましょう。顔回は一を聞いて十を悟りますが、私は一を聞いてせいぜい二を悟る程度ですから」と答えた。孔子は、「まことにそうだなあ。お前だけではない、実は私も顔回には及ばんのだよ」と云った。
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〔 解説 〕 |
今でもよく使われる「一を聞いて十を知る」なる言葉の出典がここであります。十哲の一人で言語の人と云われる子貢は、本当に頭のいい人だったようで、斉が魯に侵攻を企てた際、孔子の命を受けて、斉一呉一越一晋の要人や諸侯を説き伏せて魯を救った時の様子が、史記・孔子世家に載っておりますが、論法の鮮やかさには舌を巻いてしまいます。この人と議論して勝てる人は、現代でもちょっといないのではないでしょうか。
子貢の残した言葉で今でも使われる諺に「駟(し)も舌に及ばず(駟とは四頭立ての馬車で、当時最速の乗り物)・一度口から出た失言は、四頭立ての馬車でも取り返すことが出来ない」というものがありますね。
因みに、越王勾践(こうせん)が宿敵呉王夫差(ふさ)を伐って、呉越の争いに終止符を打つことができたのは、子貢の策略によるものであることを史記は伝えております。
大兵法家孫武(孫子の兵法の著者)は、この時既に夫差の人品骨柄を見抜いて呉を去っておりましたが、もし孫武が呉に残っており子貢と対論していたらどうなっていたか・・・?そう易々と子貢の口車に乗せられることはなかったのではないかと思いますが、伯否(はくひ・呉の宰相)では勝負にならなかったようです。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様が弟子の子貢に、「お前と顔回とどちらが優れていると思うかね?」と聞いた。子貢は、「私が顔回にかなう筈がありません。顔回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いて二を知るのがやっとですから」と答えた。孔子様は、「そうだね。お前だけではない、実は私も顔回にはかなわないのだよ」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
一部を聞いて全体を把握することを「一を聞いて十を知る」と云いますが、今でも使われるこの言葉は、子貢の口から出たものだったんです。磨きの上にも磨きをかけることを「切磋琢磨」と云って、今でも普通に使われておりますが、元は「詩経・衛風淇澳(きいく)篇」にあった文言を、これも子貢が学而第一(015章)で引用してくれたお陰で、広く世に知られ使われるようになったんですね。子貢が引用してくれなかったら、「切磋琢磨」という言葉は、今でも詩経の中に埋もれていたかも知れません。
論語が日本に伝わってから1700年以上経ちますが、詩経が伝わったのは遣隋使以降でしょうから、どんなに早くても1400年前になります。ですから、日本人が「切磋琢磨」という言葉に最初に接したのは、論語の子貢の口を通してであった訳です。子貢がこの言葉を引用した際に、孔子は「往を告げて来を知る者・打てば響く優れ者」と子貢を誉めておりますが、この人は本当に頭が良かったようですね。
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