子張第十九 504

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〔原文〕
叔孫武叔、語大夫於朝日、子貢賢於仲尼。子服景伯以告子貢。子貢日、
譬之宮牆、賜之牆也及肩、窺見室家之好。夫子之牆數仞、不得其門而入、
不見宗廟之美、百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。

〔読み下し〕
叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)大夫(たいふ)(ちょう)(かた)りて()わく、()(こう)(ちゅう)()(まさ)れり。子服景(しふくけい)(はく)(もっ)()(こう)()ぐ。()(こう)()わく、(これ)宮牆(きゅうしょう)(たと)うれば、()(かき)(かた)(およ)べり、室家(しっか)()きを(うかが)()ん。夫子(ふうし)(かき)数仞(すうじん)()(もん)()()らざれば、(そう)(びょう)()百官(ひゃくかん)(とみ)()()(もん)()(もの)(あるい)(すく)なし。夫子(ふうし)()うこと、(また)(うべ)ならずや。

〔新論語 通釈〕
魯の大夫叔孫武叔(叔孫氏)が、他の大夫達と朝廷で歓談した際に、「子貢は仲尼よりも優れている」と云った。孟孫氏の一族で同じく魯の大夫の子服景伯がこの話しを子貢に告げると、子貢は「畏れ多いことを仰(おっしゃ)いますな。先生と私とでは比べものになりません。屋敷の垣根に譬えてみれば、私の垣根はやっと肩にとどく位で、垣根越しにいくらでも中を覗けますから、ちょっと目には好く見えるかもしれません。しかし先生の垣根は数丈にも及びますから、外からでは中を窺い知ることができません。

入り口を探して中に入ってみなければ、宗廟の美しさや諸役人が大勢働いている盛んな様を見ることが出来ないのと同じことです。おまけにその入り口ときたら探し出すのに容易でなく、中に入れる者は極めて少ないものですから、叔孫氏が勘違いされたのも無理からぬことかも知れません」と云った。

〔解説〕
人物のスケールを垣根の高さに喩え、孔子の偉大さは身近で接した者でなければ窺い知ることさえできぬと云い、更に入門して身近で接していても、並みの人間には孔子のスケールの大きさは計り知れるものではない、と子貢は述べている。身近に居た弟子達の中で子貢の凄いところは、孔子は計り知れない人であることを知っていた、つまり、天帝()から神聖なる使命を授かって下生されたメシア(聖なる存在)であることに気付いていたのではないか?ということです。

いまでこそ孔子は、釈迦・イエスキリストと並び称せられる「三大聖人」の一人ということが常識になっおりますが、孔子の側にいた弟子達は、何でも知っている苦労人の大人物であるということは分かっていたが、聖なる存在とまでは考えていなかったようです。殊に子路なんかは、頼りになる兄貴くらいにしか思っていなかったようですしね。勿論全員が心から孔子を慕っていたことに違いはありませんが。

生齧りの論語読みで、「孔子は何処にでもいる普通のオッサン」と評する人を時々見掛けますが、「どこに目をつけているんだ!百遍読んでからもう一度云ってみろ!! 孔子の最大の理解者子貢が何と云っているか!?」と、本章と次章と次の次の章を開いて突きつけるものですから、「アイツの前では滅多なことを云うな!」と煙たがられることもあります。

今は「やんぬるかな!?」と唱えることを覚えましたから、煙たがられることもなくなるのでは?と期待しておりますが‥‥。ついでに本章の結語「不宜乎・うべならずや」も唱えてみますかな?「無理もない、もっともだ!」という意味ですから、「やんぬるかな」+「うべならずや」=「しょうがねえな!?まあいいか!?」となる。

ひょっとして「やんぬるかな!?うべならずや!?」が今年の流行語大賞に選ばれるかも‥‥、なんてことはないか。嫌なことがあったら、「やんぬるかな!?うべならずや!?」と唱えてみれば、心の余裕と迄は行かなくとも、心のクッション位にはなるんじゃないかな?

〔子供論語 意訳〕

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(こく)大臣叔孫武叔(だいじんしゅくそんぶしゅく)(ほか)大臣(だいじん)(たち)意見(いけん)交換(こうかん)をしていた(とき)に、「()(こう)はどうやら孔子(こうし)(さま)よりも(えら)いらしいぞ
! 」と()った。これを()いた同僚(どうりょう)子服景(しふくけい)(はく)がこの(はなし)()(こう)(つた)えた。()(こう)は「とんでもありません。孔子(こうし)(さま)(わたくし)とでは(つき)とすっぽんですよ。垣根(かきね)(たか)さに(たと)えてみれば、(わたくし)垣根(かきね)はせいぜい(かた)(たか)さまでしかありませんから、いつでも垣根(かきね)()しに(なか)をのぞけます。しかし孔子(こうし)(さま)垣根(かきね)は10メートルもありますから、(だれ)(なか)をのぞくことができません。()(ぐち)(さが)して(なか)(はい)ってどんな屋敷(やしき)()てみたいと思う(おも)のですが、その()(ぐち)(さが)すことさえ簡単(かんたん)ではありません。ですから叔孫(しゅくそん)大臣(だいじん)(かん)(ちが)いされたのも、無理(むり)もないことかも()れませんね」と()った。

〔親御さんへ〕
「月とすっぽん」は小学国語辞典にちゃんと載っております。何度も云うように、子貢は孔門随一の雄弁家で優れ者でした。この人の弁舌は、多くの人を魅了したのではないでしょうか?2500年後の我々が読んでも「凄いな!」と思わせますからね。

どこが凄いかと言うと、比喩の一つ一つが非常に含蓄に富むと云うか、説得力があるんですね、思わず「なるほど!」と唸ってしまう。比喩の巧みな人は頭がいいと云われますが、子貢は頭がいいだけではなく、商才にも長けていました。孔子貧乏教団の財政を一手に支えたのがこの人です。孔子も、「賜は命を受けずして貨殖す。慮(おもんばか)れば屡(しばしば)(あた)る」と、子貢の商才に舌を巻いている。

その子貢が「孔子と自分とでは月とすっぽんだ!」と云うのですから、周りの人も「子貢が云うのだから間違いあるまい」と思っても良さそうなものですが、同時代・同地域に生きた人達の認識はそうではなかったようで、叔孫武叔は次の章でも、又孔子門下の陳子禽でさえ次の次の章で孔子を貶(けな)している。

「灯台下暗し」と云いますが、身近の真相には却って疎い、というのがどうも我々凡人の愚かな一面のようで、一体どうしてでしょうかねえ?自分が大したことがないからと云って、周りの奴らもそんなものだろう!?などと高を括ってはいけないね。飛びぬけた人物ほど、何処にでも居るような普通の恰好をして周りに同化しているものなんだから。突飛な恰好をして勿体振るのは、大抵ハッタリです。度量も度胸もないのに、自己顕示欲だけは人一倍強い目立ちたがり屋のすることだね、突飛な恰好は。

「坐鋭解紛、和光同塵(ざえいかいふん、わこうどうじん)・鋭を坐(くじ)き紛を解き、光りを和らげ塵に同じうす」なんですよ本物は、いつの時代も。

人は皆一升枡を持って生まれて来るのだけれど、三合迄しか使ったことのない人にいきなり五合入れたら息が苦しくなってしまうし、四合迄しか使ったことのない人に一升入れたら窒息してしまう。

逆に、五合入る人に三合しか入れなかったら、「やんぬるかな!?」と思われるし、一升入る人に四合しか入れなかったら、「うべならずや!?」と思われる。人の心を枡に喩えてみればそういうことなんです。人は関係性の中からしか学ぶことができない生き物なんですね。この関係性のことを「縁」と云う訳ですが、血縁・地縁・人縁・時縁、どれ一つとして粗末にすることはできません。

私達は縁の中で生かされ、縁の中からしか学ぶことができないのだから。この宇宙の中で、自分と縁のないものなど本当は一つもないんです。すべては繋がっているんです。要はそれが分かるかどうか?これが今のあなたを決定付けているんですね。
 

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