〔原文〕
曾子日、吾聞諸夫子。人未有自致者也。必也親喪乎。
〔読み下し〕
曽子曰わく、吾諸を夫子に聞けり。人未だ自ら致す者有らざるなり。必ずや親の喪か。
〔新論語 通釈〕
曽子云う、「私はかつて先生(孔子)からこんな話しを聞いたことがある。人が感情の限りを出し尽くすというようなことは滅多にない。あるとすれば、親の喪に遭遇した時くらいのものだろう」と。
〔解説〕
曽子は何を弟子達に云いたかったのでしょうか?この当時は、感情、特に哀しみの情を顕わにするのは憚られたのでしょう、滅多に見られなかった。ただ、葬儀に際しては「哭礼(こくれい)」と云って、弔問に行った場合は声をあげて泣くのが礼儀とされておりましたから、この時ばかりは遺族も哀しみを顕わにすることができた、というよりは、それが喪主としての礼儀でもあった。
弔問客が声をあげて泣いているのに、遺族が平然としていたら、「何だこいつらは!親の喪に平気でいられるなんて、何と薄情者か!?」となる。孔子は2才の時に父を、16才の時に母を亡くしておりますが、父を亡くした時はまだ赤ん坊ですから何も分からなかったでしょうが、母を亡くした時は本当に哀しかったのでしょう、この厳しい時代に、愛情たっぷり女手一つで自分を育ててくれた訳ですからね。貧しい中で学問までさせてくれた大恩人です。
この時孔子は喪主としての礼儀でも何でもなく、真情から我を忘れて泣いたのでしょう、何かの折に曽子にそのことを語って聞かせた。それが曽子のこの言葉となったのではないでしょうか?もしかすると、曽子の頃にはもう哭礼が真情からではなく、形式的なものに堕していたのかも知れません。それを嘆いた曽子は「そんなものじゃない!」と、弟子達に伝えたかったのかも知れませんね。
後に「哭礼」は喪主の手を離れ、これを生業とする泣き男・泣き女という「泣きのプロ」が登場することになります。台湾や韓国では今でもこの風習が残っているそうですが、日本でも能登半島北部に最近まで残っておりまして、報酬の多寡によって「五合泣き」・「一升泣き」・「二升泣き」と、泣き方に濃淡があったそうです。
〔子供論語 意訳〕
曽先生が、「私は昔孔子様からこういう話しを聞いたことがある。『君達は普段メソメソしてはならないが、父母が亡くなった時は思い切り泣いていい。その涙が哀しみを癒してくれるだろう』と」と云った。
〔親御さんへ〕
涙が哀しみを癒してくれるというのは確かにその通りでありまして、もらい泣きしてくれる人がいると、その分癒しの力も増すようですね。「哭礼」のルーツは、案外こういう人間の共感心理を反映したものなのかも知れません。一概に形式主義と決め付ける訳には行かないようです。
常々「礼とは、仁の心を姿形に表したものだ!」と皆さんに語っておりますが、礼式作法のルーツを辿ってみれば、皆それなりに曰く因縁があるのではないでしょうか?「面倒くさい!」・「形だけだ!」と云う前に、どんな曰く因縁があるのだろうか?とルーツを調べてみるのも面白いかも知れません。礼楽の大家孔子でも、結構知らないことがあったようですから。
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