〔原文〕
曾子日、堂堂乎張也。難與並爲仁矣。
〔読み下し〕
曽子曰わく、堂堂たるかな張や。与に並びて仁を為し難し。
〔新論語 通釈〕
曽子云う、「実に堂々としているなあ子張は! しかし、ともに仁を実践できるかどうかとなると、難しいな!?」と。
〔解説〕
これが曽子の子張評です。やはり子張は思いやりに欠ける人物だったようですね。
子罕第九239章で孔子は「与に共に学ぶべし、未だ与に道に適(ゆ)くべからず(共に真理を学ぶことはできても、共に同じ道を行ずるということは、中々できるものではない)」と述べておりますが、知識を共有することはできても、見識を共有することは難しいし、見識を共有することはできても、認識を共有することは一層難しい。
よしんば認識を共有することができたとしても、共に同じ道を歩めるかどうかとなると、これは甚だ難しい。同じ道を歩むとなると、余程の決心が要る、場合によっては、死なば諸共の覚悟が要る。こと決心や覚悟となりますと、男は女の足元にも及びません。
常々私は、女は女であると言うだけで男の三倍偉いと考えております。その理由は、
一、女は、人を受容する力が男の三倍ある。
二、女は、現実適応能力が男の三倍ある。
三、女は、覚悟を決める力が男の三倍ある。
男は決断するのは早いが、一旦決断した後でああでもない?こうでもない?と迷って中々決行に移せない。これに対して、女は決断するまではああでもない?こうでもない?と呆れるほど迷うが、いざ決断したとなると迷わず決行する。例はよくないけれど、心中事件なんかを見るとよく分かりますね。女はほぼ100%死にますが、男の死亡率は50%、躊躇して半分は死に切れないそうですからね。
レストランのメニュー選びでも似たようなことが見られます。男はどれにしようか?と迷うが、決めるのは早い。女はあれも食べたい!これも食べたい!と迷って中々メニューが決まらないが、一旦決めると驚くほどよく食べる、脇に除けておいた脂身迄!!世の男どもよ、女が一旦覚悟を決めたら、これほど怖いものはないんだよ!梃子でも動かないんだよ!よく覚えておきなさい!!
アレッ?何でこんな話しになっちまったのかなあ!?途中までは良かったのに‥ぼってり腹後遺症かな?因みに、「ぽってり」とはふくよかで弾力のある様を云い、「ぼってり」とはしまりなくボテッと膨らんでいる様を云う。ぽってりは平安美人の象徴、ぼってりは現代のメタボオバンの象徴って所かな?
〔子供論語 意訳〕
曽先生が、「堂堂としているなあ、後輩の子張君は!しかし、温かみがないから、一緒にいたいとは思わないな」と云った。
〔親御さんへ〕
人としての温かみ・温もりは問答無用、理屈抜きで伝わって来るようで、少々口が悪かろうと、だらしなかろうと、どこか憎めない不思議な効用をもたらしますね。温かみ・温もりのある人の周りには、どういう訳かいつも人が寄って来る。これは科学的な研究が為されたことはないけれど、温かみのある人はほのぼのとした波動を絶えず発しているから、丁度日向ぼっこをするようなもので、側にいると心地良いからではないでしょうか?小さな太陽みたいな存在ですね。
それと、場を盛り上げる為に「バカ利口」になれるかどうか?刺身のツマになれるかどうか?どういう訳か、度量のない人間に限って、気張って利口ぶってみたり、刺身(主役)になりたがったりするんだな、これが又。
いつも皆さんに、「ほのぼのとして、何となくユーモラスで、どこか懐かしい感じがして、いつまでも無邪気な遊び心を失わない、そんな人間でありたいものだ!」と云っておりますが、「ほのぼのとして」は温もりのこと、「何となくユーモラスで」はバカ利口のこと、「どこか懐かしい感じがして」は誠実さのこと、「いつまでも無邪気な遊び心を失わず」は天真爛漫な純粋さのことでありまして、あとはウキウキワクワクして前向きに生きられたらいいなあ!という意味なんですね、一人の人間として。
「寒々として、俺が俺がと気張って、木で鼻を括ったようにギスギスして、ねばならぬ!」でなんか生きたくないんです。口先だけで仁だの恕だの忠恕だのと云った所で始まらないんです。温もりがあるのか?ユーモアがあるのか?周りに人が寄って来るのか?これで決まるんですね、人は。
自分が如何程の人物かを知りたければ、利害や損得や序列や禁忌のない所、そう当会のような所で周りにどう扱われているか見れば、大体分かるのではないでしょうか?正直で大人だからね、当会の諸君は。
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