〔原文〕
大師摯適齊。亞飯干適楚。三飯繚適蔡。四飯缺適秦。鼓方叔、入於河。
播鼗武、入於漢。少師陽、撃磬襄、入於海。
〔読み下し〕
大師 摯は斉に適く。亜飯 干は楚に適く。三飯
繚は蔡に適く。四飯 缺は秦に適く。鼓 方叔は河に入る。播鼗
武は漢に入る。少師 陽・撃磬 襄は海に入る。
〔新論語 通釈〕
魯の楽官長の摯(しょ)は魯を去って斉に行った。二度目の食事に音楽を演奏する役の干(かん)は楚へ行った。三度目の食事に音楽を演奏する役の繚(りょう)は蔡に行った。四度目の食事に音楽を演奏する役の缺(けつ)は秦に行った。鼓(つづみ)奏者の方叔(ほうしゅく)は黄河のほとりに隠れた。振り鼓奏者の武は漢水のほとりに隠れた。補佐役の陽と磬(けい)を撃つ役の襄は海を渡って島に隠れた。
〔解説〕
これは恐らく冒頭の「子日わく」が欠落したものでしょう。いつ頃の出来事を語ったものかはっきりしませんが、殷が滅びた時の話しであろう? 周の平王の時の話しであろう?魯の哀公の時の話しであろう?と諸説あります。
ただ最初に出て来る大師 摯は、泰伯第八202章に登場する師摯のことではないかと思われますし、孔子は若い頃この人の演奏を直接聴いて感嘆している。よって、ここでは魯の哀公の頃の話として通釈しました。それ以外のことは全く分かりません。
それにしても、魯公は日に四度の食事をとり、その都度違った奏者に演奏させるとは、随分豪勢な暮らしをしていたんですね。
〔子供論語 意訳〕
孔子様が亡命先の衛から魯に帰国した時、魯国の音楽が乱れに乱れていたので、魯国の殿様哀公に、元の正しい音楽にもどすべきだと進言した。そこで哀公は楽団に解散を主だった奏者を追放した。常任指揮者の摯が斉の国に逃げたのを皮切りに、第二パートリーダーの干は楚の国に逃げ、第三パートリーダーの僚は蔡の国に逃げ、第四パートリーダーの缺は秦の国に逃げ、太鼓奏者の方叔は黄河のほとりに逃げ、小太鼓奏者の武は漢水のほとりに逃げ、副指揮者陽と打楽器奏者の襄は海を渡って島に逃げた。その後しばらくすると、魯国の音楽は正調にもどった。
〔親御さんへ〕
子罕第九223章に「吾衛より魯に反りて、然る後に楽正しく、雅頌(がしょう)おのおの其の所を得たり」とありますので、恐らく本章はその時の話しではないかと思います。詳しくは223章の通釈・解説をご覧下さい。
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