陽貨第十七 470

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〔原文〕
子日、年四十而見惡焉、其終也已。

〔読み下し〕
()(のたま)わく、(とし)四十(しじゅう)にして(にく)まるるは、()(おわ)わらんのみ。

〔新論語 通釈〕
孔子云う、「四十過ぎても、まだ人に悪まれることを気付かずにやっているようでは、その人生は最早勝負あったというところかな」と。

〔解説〕
これにはさすがの孔子も匙を投げているようですが、孔子がここで「年四十にして悪まるるは其れ終わらんのみ」と云っているのは、気付かずにやっている悪まれ事のことです。

国の政治は、時代の要請や環境の変化に応じて絶えず変革してゆかなければなりませんから、その時悪まれようが怨まれようが、国家及び国民の安・富・尊・栄実現の為に、やるべきことは断固やる!という姿勢が政治家には要求される。企業経営者も同じです。

人に悪まれることを敢えて承知の上でやるというのは、それ相応の覚悟と勇気が要る。これは立派なことです。しかし、悪まれることを気付かずにやるのは、覚悟も勇気も要らない、惰性でやってしまいます。この無自覚でやってしまう惰性(習慣)こそが実は大変な曲者なんですね。孔子は悪しき惰性を矯め直すことが出来るのはせいぜい四十迄、出来なければ一生引きずると云っておりますが、今は平均寿命も延びておりますから、四十代全般と捉えて良いかと思います。

以前、人の後半生は四十代どのように生きたかで決まるようだと述べましたが、それまで(二十代・三十代)は予行演習というか、本番前のリハーサルのようなものではないかと思います。

企業の会計方式に喩えてみると、四十代は丁度中間決算をやらされているようなもので、これが五十代・六十代・七十代の方向を決め、八十過ぎに総決算が行なわれる。四十代にそれまでの惰性のままのんべんだらりと過ごしてしまいますと、身・口・意の習性が固まってしまいますから、五十過ぎ六十過ぎてから矯め直すのは大変です。手遅れという訳ではありませんが猛烈に骨が折れます。ですから、殆どの人は億劫がって敢えてやろうとはしません、惰性で行ってしまいます。

四十代はそれまで心に纏って来た先入観念や固定観念から来る価値観・思想信条を一度取り払って、内なる自己・真我と向き合う大切な大切な時期ではないかと思います。場合によっては、それまでの仕事・それまでの人間関係・それまでの生き方と訣別して、新たな道を歩み出さなければ、どうにもならないような「うずき」が心の奥底から湧き起こって来ることもある。

その時は、心のうずきに素直に従いなさい!あなたの魂の叫びなんですから。「お前はそんなことの為に今世生まれたんではないぞ! 生まれる前に神様と約束したことを思い出せ! 私は○○の使命を果たします!! と誓って母の子宮に飛び込んで行ったのではないか!!」と云う。

過去どう生きてきたか?など大した問題ではない、今をどう生きいてるか!?が大切なんです。心のうずきに気付きなさい!魂の叫びに気付きなさい!本当の自分をごまかして生きるのはもうやめなさい!!学歴・肩書・財産・名声など、神様の前ではガラクタです。神の前で通用するのは、唯一生まれる前に誓った使命(役割・課題)を果たして来たかどうか!?これだけです。これはよくよく肝に銘じておきなさい。

〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(ひと)にいやがられていることを()づかずに、いつまでも(つづ)けていると、この(ひと)仲間(なかま)にはなりたくないと友達(ともだち)()って()き、ついには(だれ)(きみ)協力(きょうりょく)してくれなくなるぞ!」と。

〔親御さんへ〕
意識して人に嫌がられることをするのが気持いい!などという人は滅多におりません。いるとすれば、気違いかゴロツキの類でしょう。大半は嫌がられていることに気付かずやってしまう悪まれ事です。

皆さんは、気付かずにやってしまったことは仕方がないじゃないか?と思われるかもしれませんが、それは赤の他人に対してであって、自分の子がそうだったらどうしますか? 放っておかないでしょう?厳しく叱るでしょう?気付くまで。

同じ所で同じ失敗をやらかしたら、「何度云ったら分かるんだ!」と手が出るでしょう?他人の子にはやらないでしょう、こういうことは。やれば暴行罪で訴えられる。しかし、自分の子ならばバシッとやる、ゲンコツでもビンタでも。他人の子にはやらないが、自分の子にはやる、これは何故でしょうか?そう、責任があるからです、自分の子には。

責任だけか?というとそうではない、根底に、将来人に憎まれる人間にはなって欲しくない!という我が子を思う親心があるんですね。親子の愛というと、子に対する優しい面だけが強調されがちですが、厳しい面も必要なんです。優しいだけで厳しさを欠いた愛は本当の愛ではありません、見せ掛けの愛です。見せ掛けの愛は「仁」とは申しません。

完璧な人など一人もおりませんから、親が子を、先輩が後輩を、上司が部下を、教師が生徒を、厳しさを伴った愛で導いてやるというのは、人類誕生の時から変わらぬ道理です。

この厳しく導くことを「鍛える」と云いますが、周りに鍛えてもらえるのは四十までです。四十と云えば「不惑」の年、分別盛りの中年と世間は見做しますから、四十過ぎると鍛えられる対象から外れ、今度は人を鍛える側に回ります。人を鍛えながら自分を鍛えて行く、つまり、自分のことは自分で鍛えるしかなくなる訳です、四十代は。

当会ホームページ「子供論語」の愛読者には、三十代〜四十代の方が多いようですが、これはよく覚えておいてください、四十代にどこまで自分を鍛え上げて行ったか!?これが後半生、特に定年後の人生を決めることになります。表面的な失敗、喩えば、受験・就職・恋愛・結婚・事業の失敗など、本当は大したことではないんです。それよりも内面的・根本的な失敗、喩えば、魂の退化・人格の堕落・精神の腐敗の方が何倍も恐ろしい。

受験も就職も恋愛も結婚も事業も、順風満帆で生きて来たとしても、それで魂の進化も人格の向上も精神の涵養もはかれなかったとしたら、その人生は表面的には成功したかに見えるかも知れないが、根本的には不成功です。失敗かどうかは、棺桶の蓋が閉まった時に決まります。それまではチャンスがある。ノーベル賞を貰おうが、文化勲章を貰おうが、そんなものはこの世限りのもの、神の前では一切通用しません。

ノーベル文学賞のOなどは、神の前では一顧だにされないでしょう。(「北朝鮮は地上の楽園」などと喧伝して、何も知らぬ在日朝鮮人及びその日本人妻約10万人を地上の生き地獄に投げ入れたのですから)

いいですか!地位と魂を引き替えにしたり、富と魂を引き替えにしたり、名誉と魂を引き替えにしたりすること、つまり、我欲と魂を引き替えにすることはやめなさい!! 四十代にこの誘惑が一番多いんです。そんなことには目もくれず、思いと・言葉と・行ない(身・口・意)の根本に仁(純粋な無条件の愛)を据えて、どこまで自分を鍛え上げて行けるか!? 一度死ぬ気で勝負してみなさい!!

今迄、死ぬ気で勝負してみたことなど、ないでしょう?楽して生きることばかり考えて来たでしょう!?楽して生きることは勝負とは云いません、「人生ごっこ」と云うんです。ごっこで大成した人はおりません。人生は真剣勝負、ごっこではないんですよ!特に今世は地球に於ける過去幾百転生の総決算の人生、卒業試験の人生をやらされているんです。

いいですか!子育ては命懸けの仕事です。子供の為にと言いながら、「親の欲目」で育てたら、子供はダメになってしまいます。愛と欲は別のものです。本当の愛は欲を伴わないものなんです、厳しさを伴うものなんですよ。愛と勘違いした親の欲目は必ず子供をダメにする。

(人格)は親子と雖も元々別のものなんです。肉体的には分身だが、魂的には別のもの、子は神からの預かりものです。母の子に対する無前提無条件の愛は偉大です、だが、その愛にも「親の欲目」という大きな落とし穴が待ち受けている。紙一重の差なんです、愛と欲は! ああ、今日はいい勉強をしましたね。

当会にもいるからね、親バカを通り越したバカ親が!気が気でないんですよ、私も。親子ごっこはもうやめなさい!人生ごっこはもうやめなさい!真剣勝負してみなさい!!
 

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