〔原文〕
子日、予欲無言。子貢日、子如不言、則小子何述焉。子日天何言哉、
四時行焉、百物生焉。天何言哉。
〔読み下し〕
子日わく、予言うことなからんと欲す。子貢日く、子如し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子日わく、天何をか言うや、四時行われ、百物生ず。天何をか言うや。
〔新論語 通釈〕
孔子云う、「私は何も言いたくない」と。これを聞いた子貢は、「もし先生が何も言われなくなったら、我々門人は何を学び何を述べ伝えたら宜しいのでしょうか?」と尋ねた。孔子は、「天(神)が一体何を言うかね?何も言わずとも春夏秋冬の四季は巡り、万生万物はみな生成化育しているではないか。天は何も語りはしないではないか!」と云った。
〔解説〕
これは一体何ごとがあったのでしょうか? 前にも述べましたが、晩年の孔子学園は弟子の数三千人とも云われ、仕官を目指す全国の英才が集うエリート養成所のような観を呈していたようです。所謂、頭でっかちが一杯居た訳ですね。そういう連中が「ああでもない!こうでもない!」と人を批判しているのを見て、「何を云っていっているんだこいつらは!?」と、うんざりしたのではないでしょうか。
もしかしたら、子貢が先輩格としてその座に加わっていたのかも知れない、子貢は辛辣な人物批評をする人でしたから。「天何をか言うや!」と二度繰り返している所を見ると、子貢に何かを気付かせたかったのではないかと思われますが、一体何を気付かせたかったのでしょうか?
私達は今こうやって生きていることが余りにも当たり前過ぎて、あたかも自分の意志で生きているかのように錯覚しているけれども、実は天地宇宙の万生万物は、すべて天(神)の意志により生かされている存在であって、在らしめん成らしめんとする天の意志がなくなれば、一瞬で消滅してしまう儚い存在です。人間はミミズ一匹どころか大腸菌一つすら創れないのです。
恐らく孔子は言外に「お前達は一体何様のつもりになっているんだ!何だかんだと云う前に、自分が生かされていることに感謝しろ!今在ることに感謝しろ!!」と云いたかったのではないでしょうか。
本当に私達は、自分が生かされているということを殆ど忘れて生きている。すべては神の意志によりて生かされている存在であるということは、すべては神の子ということですね。孔子は「天何をか言うや、四時行なわれ‥‥云々」と述べ子貢に対して言外にこのことを気付かせようとしたのではないでしょうか。
当会で私が「吾言うことなからんと欲す」などと云おうものなら、みんな大喜びして「では早速宴会に入りましょう!」ってなことになるんじゃないかなあ?まあいいか!?それでも。
〔子供論語 意訳〕
孔子様が、弟子の子貢が後輩達を集めて人を批評しているのを見て、「私は君たちにはもう何も話したくない!」とおっしゃった。これを聞いた子貢はびっくりして、「先生が何もおっしゃらなかったら、私達は何を人々に伝えたら良いのでしょうか?」と質問した。これに対して孔子様は、「神様は私達に何かおっしゃるかい?何もおっしゃらなくても春夏秋冬の四季は順序良くめぐり、それに従って人も動物も植物もみな成長して行くではないか。神様が人を咎めたり謗ったり傷つけたりしたことがあるかね?みんな平等に愛し、許し、生かして下さっているではないか。他人のことをとやかく云う前に、まず自分が生かされていることに感謝しなさい!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
解説でも述べましたが、私達は生かされていることを殆ど忘れて生きています。イスラム教徒のように一日五回アラーの神に感謝の祈りを捧げるのは無理としても、夜寝る前や三度三度の食事の時に、掌を合わせて感謝の祈りを捧げることは、神の子人間として当たり前のことではないでしょうか。困ったときの神頼みで、何かをお願いする時だけ神様にすがって後は知らん振りでは、ちょっと虫が良過ぎます。
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