〔原文〕
孺悲欲見孔子。孔子辭以疾。將命者出戸。取瑟而歌、使之聞之。
〔読み下し〕
孺悲、孔子に見えんと欲す。孔子辞するに疾を以てす。命を将う者、戸を出ず。瑟を取りて歌い、之をして聞かしむ。
〔新論語 通釈〕
哀公の家臣の孺悲が孔子に面会を求めて来た。孔子は、病気の為会えないと伝えるよう取次ぎの者に命じた。取次ぎが戸口で伝える頃を見計らって、孔子は琴を弾き孺悲に聞こえるように歌を歌った。
〔解説〕
仮病を使って面会を断り、しかも仮病だと相手に分かるようにわざわざ歌を歌うとは、孔子の真意はどこにあったのでしょうか?本章は以下の背景を知らないと、何が何だか訳が分かりません。
‥‥恤由(じゅつゆう)という有能な官僚が亡くなった時、哀公は士の
身分に相応しい葬式を出してやりたいと思ったが、士階級の正式な
葬儀の仕方を知っている者が誰もいなかった。そこで哀公は典礼の
孺悲に、既に現役を退いている国老の孔子なら知っているのでは
ないかと告げる。孺悲は伺いも立てずいきなり孔子を訪問する‥‥。
これは身分が明確に定められていた当時としては、大変に非礼なことです。隠退したとは云え、孔子は卿大夫の待遇を受けている国老ですから、まず哀公の紹介状を持った使者が孔子の元を訪ね、斯く斯く然然の用件で典礼の孺悲という者が参上したいが、いつが都合が良いか?と伺いを立てるのが筋です。まして国の儀礼を司る典礼の孺悲が自らその禁を犯すなど以ての外。
だから孔子は仮病と分かるようにわざと聞こえるように琴を弾き歌を歌ったんですね、「孺悲よ、これは非礼なことだよ!」と気付かせようとして。「この無礼者!」と云ってしまえば、孺悲の面子は丸潰れになってしまいますが、これですと面子は立ちますし、孺悲は孺悲で「訪ねたが、先生はご病気の為後日出直します」と言い訳が立つ。
実際非礼に気付いた孺悲は、礼を尽くして再度孔子を訪問し、士階級の正式な葬儀のやり方(士喪礼)を教わっている。『恤由(じゅつゆう)の喪に、哀公、孺悲をして孔子に之(ゆ)きて士の喪礼を学ばしむ。士の喪礼ここに於いて書(しる)せり』(礼記雑記下第二十一)とある。
しかし凄いですね! 孔子の配慮は!!ここまでできますかねえ?我々凡人に!! 物凄くデリカシーの発達した人だったんですね。「ああではないか!こうではないか!」とストレートに云ってやることが親切とは限らないんですね。時と場合によっては、敢えて教えない方がむしろ親切なことがある、本当の教えになることがある!ってことですか。難しいね、ここいらへんの匙加減というか塩梅は。
〔子供論語 意訳〕
孺悲という魯国の役人が突然孔子様をたずねて来て、武士の正しい葬式のやり方を教えて欲しいといった。孔子様は孺悲の失礼な態度にムッとしたが、今は体調が悪いといってことわった。孺悲が門を出るころを見計らって、孔子様は琴を弾き歌を歌って、今度来る時はあらかじめ都合を聞いてから相手に失礼のないように気配りしていらっしゃい!という気持ちを伝えようとした。これに気づいた孺悲は深く反省し、後日改めて礼儀正しく孔子様を訪問した。孔子様は快く孺悲を迎え、正しい武士の葬式を教えた。これが『士喪礼』として後世に伝わった。
〔親御さんへ〕
随分長い意訳になりましたが、子供に分かるように云えばこういうことです。前章といい本章といい、人に何かを気づかせようとする孔子の苦心がうかがえる味のある内容ですが、表面的にしか捉えなければ、本章などは面白くも何ともありません。
何度も云うように、論語の章立ては一見雑に見えるけれども、語られた時の背景をよくよく吟味してみると(勿論記録に残っていないものは推測するしかありませんが)関連する内容の文章が何本か束になって編集されている。本章などは、背景を知らなければ「孔子も随分意地悪な人だ!」くらいにしか思われないでしょう、仮病を使って面会を断り、わざわざこれは仮病だよ!と教えているようなものですから。
孔子の教育方針は、教え込むというものではなく、「そうだったのか!?」と本人に気づくきっけを与えて、蒙を啓かせることが主眼だったようですが、本当の教育とは、教えるものではなく気づかせる所にあるのかも知れません。
「躾」は一方的に教え込まなければ身につきませんが、「教育」は本人が気づかなければ、本当の所は身につかないようです。英語でも教育はeducate・能力を引き出すと云い、躾はbring
up・するようにさせるとちゃんと使い分けている。思えば、人生とはどれだけ気づくことが出来たか?を問われている「心の実技試験」のような気がします。
気づけば何ごとも改めることが出来るけれども、気づかなかったら一生そのまま、改めてみようがありません。気づかない時は平気な顔をしていられるけれども、一旦気づいてみると、気づけなかった自分が何とも情けないというか、とても恥ずかしく感じられます。
ともすると私達は、外面的な恥ずかしさにばかりに気を取られて内面的に恥じ入ることを忘れてしまいます。内面的に恥じ入ることを無くしたら、人は猿と変わりがなくなってしまう。どうも神様は気づきと恥をワンセットにして人間の心に埋め込まれたようで、自ら気がつかない時は人前で恥をかかされるようになっている、嫌も応も無く気づかされる仕組みになっている。
それを、「人前で恥をかかせやがって!」などと逆恨みすれば、最早そこまで!! 時には人前で恥をかいてみることも必要なんです、そこに気づきの材料が提示されているのだから。滑ったり転んだりして、恥ずかしい思いを沢山経験してきた人とは、どこか安心して付き合えます、人の痛みが分かっていますからね。日本人は恥を怖れ過ぎる傾向がありますが、これは恥と名誉が対だと思っているからなんですね、殆どの人がそう思っている。
これは覚えておいてください、恥と名誉は対ではありません! 「恥」と対になっているのは「気付き」です!! 「名誉」の対は「侮(あなど)り」です!! ああ、きょうはいい勉強をしましたね、これで恥をかくことを怖がってチンケな生き方をしなくても済みますから。
ただ、恥のかき捨て、恥のかきっ放しはいけないよ!何かそこから気付きを得なければ!! 気付かぬ所で恥をかかされた時は、潔く恥をかきなさい!気付かなかった自分が悪いのだから。だが、自分から人に恥をかかせるようなことをしてはいけません。
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