〔原文〕
子謂伯魚日、女爲周南召南矣乎。人而不爲周南召南、其猶正牆面而立也與。
〔読み下し〕
子、伯魚に謂いて日わく、女周南召南を為びたるか。人にして周南・召南を為ばずんば、其れ猶正しく牆に面して立つがごときか。
〔通釈〕
孔子が息子の伯魚に向かって、「お前は詩経の周南と召南を学んだか?人として周南と召南を学んでおかないと、盲人が塀に突き当たってにっちもさっちも行かなくなっているようなもので、淑女を観る眼が養われないぞ!」と云った。
〔解説〕
周南・召南25編は、文王と太似(たいじ)の馴れ初めから、后妃となった太似の「幽間(ゆうかん・淑やか)貞静(ていせい・貞節)」徳化を詠ったもので、後世「大和撫子」のモデルになったのではないかと思われます。本章は伯魚何才の時に孔子が語った言葉か分かりませんが、孔子も妻の幵官氏には随分手を焼いたようですから、息子には二の舞を演じて欲しくなかったのかも知れません。
何だか伯魚と佐々木君が妙にオーバーラップして来ましたが、今度周南と召南をコピーして彼にプレゼントしますかな? 伯魚は孔子のこのアドバイスで詩を学ぶようになり、結婚して子思という立派な息子をもうけている。まだチャンスはある!太似のような淑女は今でも結構いますよ!でもみんな人妻か大年増だから、見込みがないかなあ‥‥。 やっぱり変わった趣味の人を探すしかないか?
〔子供論語 意訳〕
孔子様が息子の伯魚に向かって、「お前は周南と召南の詩を読んだことがあるかい?この詩を読んでおかないと、ガールフレンドをつくる時に失敗するぞ!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
解説でも述べたように、詩経「周南」・「召南」で詠われている文王の后妃太似(たいじ)の人柄は、「しとやか」で「気丈」、大和撫子のモデルのような人だったようです。私は普段から、女は女であるというだけで、男の三倍の力があると思っております。
一、女は、人を愛する力が男の三倍ある。
二、女は、環境適応能力が男の三倍ある。
三、女は、覚悟を決める力が男の三倍ある。
智巧や腕力では男にかないませんが、その分神様は女に他の力を賦与したのではないでしょうか? この天与の才を存分に発揮すれば、男はその気になって発奮興起、それだけで世の中はハッピーになると思うのですがねえ。
社会が男性原理で動けば動く程、女性原理の重要性が増して来る、無くてはならないものとなって来る。以前の労働基準法では、女子保護が明確に規定され、女性は過重な労働から守られて来ました。それが、何だか訳の分からないジェンダー・フリー(生物学上の性差を無視して、社会的に男女を同一視して扱うべし!)などという獰猛な思想に犯された女性達が、ウーマンリブ運動などをやり出したものですから、男はもう女を護らなくて良い!という社会の風潮を生み出してしまった。
それでどうなったかと云うと、「それならば」ということで「男女雇用機会均等法」が制定され、労働基本法上の女子保護規定が撤廃されることになりました。つまり、深夜であろうが肉体労働であろうが、女も男と同じに働け!となった訳です。これ放っておくと、「女も男と同様、鉄砲持って戦場に行け!」となりますよ。
「男女共同参画社会基本法」(1999年6月制定)では、『社会制度や慣行が性差に関係なく、性別に中立的であるよう男女間の格差を改善しなければならない‥』と規定しているのだから。これって、「男は女らしく!女は男らしく!!男は男女(おとこおんな)になれ!女は女男(おんなおとこ)になれ!」ってことでしょ?オリンピックで、男女の別なく同じステージで勝負しろ!となったら、どうなりますか?
シンクロと新体操以外、女性は一つもメダルを取れませんよ。
これははっきりと申し上げておきますが、ジェンダー・フリーなる思想は、この世を修羅場と化す悪魔の思想です。こんなものに惑わされてはいけない、この思想の根底に潜む邪悪なものを見抜きなさい!ジェンダー・フリーを声高に唱えている人達に、愛の波動が感じられますか?人のぬくもりが感じられますか?仁の心が感じられますか?違うでしょう!?
前に云ったかも知れませんが、この思想を声高に唱えている人物に、T.Uという東大教授がおりますが、彼女の意識レベルはログ150、「修羅界」の意識です。100万部のベストセラーとなった「おひとりさまの老後」という本もログ150しかありません。この人、日本中に猛毒を撒き散らしているようなものです。邪悪です。
孔子も云っているではないですか、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」と。これに付け加えるとするならば、「男子男子たり(男は男らしく)、女子女子たり(女は女らしく)」ということですよ。それが嫌だと云う人は、腰蓑と棍棒の「猿の惑星」みたいな星に転生することになるんですよ、来世は。そういう星はこの宇宙にまだ沢山ありますから。
いいですか!人間は魂の段階から男性霊・女性霊の別があるのです。これは優劣・上下・貴賎の別ではなく、果たすべき使命・役割りの別があるということなんです。孟子が「夫婦別有り」と云っているのは、男女それぞれに果たすべき使命の別・役割りの別があるということなんですね。夫婦別姓のことではないんですよ。
男女(陰陽)力を合わせて一つのものを成し遂げて行く、神の国を作り上げて行くんです。男女はそれぞれ別のものではなく、男と女で一対、男性原理・女性原理は反目し合うものではなく、補い合うものなんです、使命の別によって。
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