〔原文〕
子日、禮云禮云、玉帛云乎哉。楽云楽云、鐘鼓云乎哉。
〔読み下し〕
子日わく、礼と云い礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや。
〔通釈〕
孔子云う、「礼礼とよく云うが、それは礼物に用いる玉(たま)や帛(きぬ)などの装飾の善し悪しを謂うのであろうか?又、楽楽とよく云うが、それは鐘(かね)や鼓(つづみ)などの楽器の善し悪しを云うのであろうか?そうではなかろう!」と。
〔解説〕
何度も云うように、礼とは仁あっての礼、仁愛の心を言葉や態度や姿形に置き換えたものが礼の本質。楽も仁あっての楽、仁愛の心を旋律やリズムやハーモニーに置き換えたものが楽の本質。仁の根っこから断ち切られた礼も楽も不毛である!と孔子は云いたかったのでしょう。
尚、本章から462章迄の八本は、虚飾・欺瞞・偽善が瀰漫(びまん)する当時の軽薄な風潮を嘆いた孔子の言葉が集められておりますが、この風潮は、現代とちっとも変わっておりません。一体全体、人間は2500年間も何をやって来たんでしょうかねえ?科学的知識が幾分増えただけなんでしょうか?精神的に進化するというのは、頭で考える程簡単ではないようですね。
老子はその最終章(81章)で、「信言は美ならず、美言は信ならず」と述べておりますが、確かに口に甘く耳に心地良い言葉には、多く毒が含まれている。口に苦く耳に痛い言葉の中に真実が含まれているようです。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「儀式に大切なのは、その由来や意味なのであって、飾りや道具が立派なことなのではない。音楽に大切なのは、演奏する人の真心なのであって、楽器のよしあしなのではない」と。
〔親御さんへ〕
セレモニーには音楽がつきものですが、葬式だけは別かと思っていたら、叔父の通夜式で会館専属の歌手が「千の風になって」という曲を歌ったのにはびっくりしました。後で叔母に聞いたら、全部会館にお任せしたので、自分もびっくりしたとのこと。この歌をお袋がえらく気に入ったらしく、昨年親父の一周忌で突然歌い出したのにはまたまたびっくり。(お袋は全くボケていません。念の為)
家の菩提寺の住職はお経が下手くそなものですから、「お経はやらんでもいいから、お前も一緒に歌え!(住職は高校の後輩です)」と告げたら、坊主も大変喜んで、千の風に乗っての大合唱となりました。訳の分からんアホダラ経を聞くより、家族の大合唱を聞いた方が、親父にとっては余程供養になったと思いますよ。坊主はお経も唱えずギャラ(お布施)をもらえたし、式は盛り上がって10分で終わるし、親戚は「いい法事だった!」と喜んでくれたし‥‥、家ってヘンかねえ?
後で弟から電話がかかって来て、「兄貴、焼香するの忘れていたよ!」と心配しておりましたので、「来年の三回忌でやればいい、親父はそんなこと気にしていないよ!」と答えましたら、「それもそうだな!?」と云っておりましたが、三回忌がこの9月27日ですから、今年は何を歌いますかな?坊主又喜ぶよ!高野さんの法事は楽でいい!!って。だからと云って、お布施を値切る訳にも行かんしなあ?あの寺暇だから。
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