季子第十六 432

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原文

孔子曰、天下有道、則禮楽征伐、自天子出。天下無道、則禮楽征伐、
自諸侯出。
自諸侯出、蓋十世希不失矣。自大夫出、五世希不失矣。

陪臣執國命、三世希不失矣。天下有道、則政不在大夫。天下有道、
則庶人不議。
 

〔 読み下し 〕

孔子(こうし)(のたま)わく、天下(てんか)(みち)()れば、(すなわ)(れい)(がく)征伐(せいばつ)天子(てんし)より()ず。天下(てんか)(みち)()ければ(すなわ)(れい)(がく)(せい)(ばつ)諸候(しょこう)より()ず。諸候(しょこう)より()ずれば、(けだ)(じゅう)(せい)にして(うしな)わざること(まれ)なり。大夫(たいふ)より()ずれば、()(せい)にして(うしな)わざること(まれ)なり。陪臣(ばいしん)(こく)(めい)()れば、三世(さんせい)にして(うしな)わざること(まれ)なり。天下(てんか)(みち)()れば、(すなわ)(まつりごと)大夫(たいふ)()らず。(てん)()(みち)()れば(すなわ)庶人(しょじん)()せず。
  

〔 通釈 〕

孔子云う、「天下に正道が踏み行われていれば、政治や軍事の政策は全て国君の手に委ねられる。乱れて来ると、政治・軍事の実権は大名が掌握することになる。

大名が実権を握ると、大抵は十代で滅びてしまう。更にその下の家老が国政を牛耳るようになると、大抵は五代で滅びてしまう。更にその又下の官僚・役人が国政を取り
仕切るようになると、殆ど三代で滅びてしまうものだ。

天下に正道が踏み行われていれぱ、そもそも政権が家老の手にあるなどという筈はないのであるし、庶民が政治についてとやかく云う余地などないのである」と。
  

〔 解説 〕

「陪臣国命を執れば、三世にして失わざること希なり。(官僚・役人が国政を取り仕切るようになると、殆ど三代で滅びてしまうものだ)」とは、ドキリとしますね。厚生労働省(社会保険庁)・国土交通省(道路公団)・防衛省‥、今の日本は将に孔子が指摘した様相を呈しているのではないでしょうか?一代30年として三代で90年、戦後60年経った日本は、滅びの門に至るか?建て直しをするか?の丁度分岐点に立っているのではないか?

古今東西を問わず、役人の世界は自浄作用が働かないようですが、どうしてなのでしょうか? 薬害エイズ問題で責任を問われた当時の担当課長に対して、最高裁は有罪の判決を下しましたが、役人が不作為責任(やるべきことを怠った責任)を問われたのは、憲政史上初めてなのではないでしょうか? 従来であれば、作為責任
(やらなければならないことを怠った責任、又は、やってはいけないことをやった責任)が問われるだけでしたからね、役人の世界は。本当にどうしてなんでしょうか、自浄作用が働かないってのは‥‥?

役人にも立派な人物は沢山おりますから、構成員の資質そのものに問題がある訳ではない。となると、役人存在のレーゾンデートルつまり、大義名分が間違っているか?職場の風土(社風)が腐っているか?組織の仕組みが狂っているか?のいずれかになろうかと思いますが、三つともおかしかったら、どんなに素直で前途有為な新人であっても、半年もすれば毒が回り始め、一年もすれば完全にその職場の風に染まってしまいます。

三年も経つころには、言い繕い・言い逃れの高等技術と云うか、卑しい習性が自然に身についてしまうという訳ですね。家風・校風・社風・国風、良いも悪いもこの「風」というものが人に一番感化を与えます、これで個人の気風が形成されて行くのです。

風は目にも見えず耳にも聞こえず、無色透明無味無臭のマントみたいなものですから、自分では中々気がつかないものですが、周りの人はちゃんとその人の醸し出す風を感じ取っている。

風の中でも一生のベースになるものが家風。風とは、知らず知らず薫習された身・口・意の習慣が自然に染み出たもの、醸し出されたものと思っていいでしょうか。どんな家にも家風がありますが、この家風にも二つありまして、

  一は「余所行きの家風」
  二は「普段着の家風」。

余所行きの家風とは、改まった場での自覚的身・口・意の習慣。これは大人になってからでも比較的簡単に身にまとうことができる。例えば、嫁に行ってそこの家の家風に染まることは可能ですし、就職してそこの会社の社風に染まることもできる。

普段着の家風とは、くつろいだ場での無自覚的身・口・意の習慣。これは三つ子の魂百までで、大人になってから直すのは大変ですが、意識して気付けば直せないこともない。

そうですねえ、分かりやすい例で云うと‥、信仰心のない家庭で育った人は、畏れ多いこと、偉大なこと、忝(かたじけな)いことに遭遇した時、自然な畏敬の念からとっさに掌を合わせることができませんし、食事の時にも合掌しませんね。葬式の時にぎこちなく掌を合わせるくらいのものでしょう。

でもこれも意識して気付けば、習慣化することができますが、気付かなければ一生そのまんまです。これは善いとか悪いとかの問題ではなく、麗しいとか・奥床しいとか・尊いとかの感性の問題ですが、実はこの無自覚の普段着の家風こそが、その人の人格形成に重大な影響を及ぼすんです、思いの習慣・言葉の習慣・行いの習慣が知らず知らず薫習されてしまうんですね。

中でもすべての元である思いの習慣、喩えば、物事を楽天的に捉えるか厭世的に捉えるか?プラス思考かマイナス思考か?人を見たら善人と思うか悪人と思うか?思いの習慣づけをしてしまうのが、この普段着の家風なんです。

無自覚の自分の思いの習慣に気付くには、「今自分は何を考えているのだろうか?今自分は何を感じているんだろうか?」と、其の都度其の都度自分に問いかけることです。自分に問いかけた瞬間に気付いていることになります、「ああ、これだったか!」と。

為政第二26章で孔子は、「其の以(な)す所を視、其の由るところを観、其の安んずる所を察れば、人いずくんぞかくさんや、人いずくんぞかくさんや」と述べておりますが、これは普段着の家風がどれ程重大か?それに気付けよ!云っているんですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「大昔(おおむかし)祭政(さいせい)一致(いっち)(宗教(しゅうきょう)政治(せいじ)一体(いったい))で、神様(かみさま)(えら)ばれた(ひと)国王(こくおう)となって(くに)(おさ)めたのでよく(おさ)まった。王様(おうさま)(くらい)(かみ)()から(はな)れ、(おや)から()へと相続(そうぞく)されるようになると、不満(ふまん)()地方(ちほう)実力者(じつりょくしゃ)分離(ぶんり)独立(どくりつ)して(あたら)しい(くに)(つく)り、その(なか)一番(いちばん)戦争(せんそう)(つよ)殿様(とのさま)全国(ぜんこく)()()()るようになるが、こうなると大体(だいたい)300(ねん)くらいで(くに)がつぶれている。殿様(とのさま)油断(ゆだん)をしているすきにずる(がしこ)大臣(だいじん)権力(けんりょく)(にぎ)ると、大体(だいたい)150(ねん)くらいで(くに)がつぶれる。さらに今度(こんど)大臣(だいじん)家来(けらい)役人(やくにん)(たち)が、ルールや()()みをいじくり(まわ)して専門(せんもん)分野(ぶんや)ごとに(こま)かく複雑(ふくざつ)なものにすると、大臣(だいじん)()()(とど)かなくなって役人(やくにん)政治(せいじ)()()()るようになる。こうなると責任(せきにん)のなすり()いが(はじ)まって政治(せいじ)(こん)(らん)し、90(ねん)くらいで(くに)がつぶれてしまう。だから20(ねん)一回(いっかい)(くに)大改革(だいかいかく)をやってマンネリ・ワンパターンを一掃(いっそう)しなければならないんだね。こうすれば、大臣(だいじん)右往左往(うおうさおう)することもないし、国民(こくみん)不平(ふへい)不満(ふまん)()うこともなくなる」と。
 
〔 親御さんへ 〕

どんな組織でも、20年経つと動脈硬化を起こして機能不全に陥ります。この時、構造改革を怠って惰性のままに行くと、創業30年を迎える前に大概潰れてしまう。企業の寿命30年、創業30周年を迎えられる会社は千社に一社と云われますが、潰れた所は殆どが組織の動脈硬化に気付かず惰性のままに経営した結果のようです。

日本の祖神天照大神を祀る伊勢神宮では、二十年に一回新殿を造営する「式年遷宮祭」が営まれますが、あれは単なる仕来りでやっている訳ではないんですね。人間の営むことは、何であれ20年もすれば動脈硬化を起こす。だから20年に一回全てを刷新してマンネリを打破せよ!という先人の知恵を儀式化したものなんです。

政治家であろうが経営者であろうが団体役員であろうが、組織の長たる者は式年遷宮を見習ったら良い。20年に一回は構造改革せよ!刷新せよ!と。

創業100年・200年・300年と続く老舗は、表面的には殆ど変わっていないように見えるけれども、内部では20年ごとに大改革をやっているんです。伝統とは革新の連続である!と知った所だけが生き残っているんですね。伝統とは昔のままに続けることだ!と錯覚した所はみな潰れています。

変えてはいけないことと、変えなければならないことをよく見極めて、勇気を持って改革して行く、自分も仕組みも組織体も。諸行無常・変化常道の世界にあって、環境の変化と時代の要請に適応できなくなった者から淘汰されて行く、人も物もシステムも。これが自然の摂理なんだから、しょうがないね。
 

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