衛靈公第十五 407

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〔原文〕
子曰、君子病無能焉。不病人之不己知也。

〔読み下し〕
()(のたま)わく、君子(くんし)(のう)()きを(うれ)う。(ひと)(おのれ)()らざるを(うれ)えず。

〔通釈〕
孔子云う、「君子たる者は、自分にその使命(役目)を担えるだけの能力があるかどうかを心配するもので、世間が自分を認めてくれるかどうかなど心配するものではない」と。

〔解説〕
本章と似た内容の文章が
学而第一16章里仁第四80章憲問第十四374章にも見られますから、孔子は常々こういうことを弟子達に云っていたのでしょう。晩年の孔子学園には、中国全土から逸材が入門して来たようで、「我こそは!」と自惚れている者も多かった。自惚れ者は、早く世に知られたい!人に認めてもらいたい!という傾向が人一倍強いから、じっくりと己を磨くことより、世間受けを狙ったパフォーマンスに精を出す。

孔子は、中身が伴わないのに評判だけが独り歩きすることを嫌った人でしたから、弟子達の世間受けを狙ったパフォーマンスが気になっていたのではないでしょうか?「夫(か)の人の子を賊(そこ)なわん!」と。変わりませんねえ、昔も今も。パフォーマンスをとったら何も残らないような人って結構いるからね。

尚、前章から411章迄の六本は、孔子が「君子(リーダー)の心得」として述べたものを集めておりますが、前後の章立てから考えると、結局ここにまとめて持って来るしかなかったのかな?と思われます。405章では「難いかな」とエリート官僚の無能ぶりを嘆き、406411章では「かくあれかし!」と語り、412章で「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と締め括る構図になっている。

確かに論語は雑纂で一貫性に乏しい所があるけれども、本章を挾む前後数章は、練りに練って編纂されたのではないでしょうか。ここをまとめたのは子貢の弟子筋ではないか?どうもそんな臭いがします。前にも述べましたが、こういう読み方も、論語の楽しみ方の一つではないかと思います。78章で一つの束になっているのではないか?と思われるような所が彼方此方に見られますから、七〜八本単位で編者達に割り振られたのかも知れません。

〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「リーダーは、(あた)えられた役目(やくめ)()たす(ため)自分(じぶん)能力(のうりょく)(みが)くことで精一杯(せいいっぱい)(ひと)()(おも)われるかどうか?など()にしている(ひま)はない」と。

〔親御さんへ〕
程度の差こそあれ、世間の目が気にならない人などいないでしょう。私達は自分の物差しで人を推し測る習性がありますから、その尺度に当てはまらない相手に対しては、どうしても違和感を覚えてしまう、「変わった人?ヘンな人?」と。実はこの時、相手も同じことを考えているんですね、「オカシナ人?」と。この自分の物差しというのが曲者で、大概はこれを以て世間の常識と錯覚して生きている。

自分の常識が世間の非常識と感じるのはどういう時かというと、10人居るとして、8人つまり80%が自分と違った行動をとった時に、初めて「自分は違うのかな?」と感じると云います。7人(70%)が違った行動をとっても、自分と同じ人が3人(30%)居れば、大して気にならないものなのだそうです。面白いもんですね。

アインシュタインは「常識とは、18才迄に身に付けた偏見のコレクションである」と云ったそうですが、血縁レベル(家族・血族)の常識が地縁レベル(地域社会・職場)に通用するとは限らないし、地縁レベルの常識が人縁レベル(国家・民族)に通用するとは限らない。人縁レベルの常識が時縁レベル(世界・地球人類)に通用するとは限らないし、更に云えば、時縁レベルの常識が銀河レベル(宇宙連合)に通用するとは限らない。

「日本の常識は世界の非常識」と云ったのは竹村健一だったか?「地球の常識は宇宙の非常識」ってこともあり得るんですよ!18才迄に身に付けた偏見のコレクションに縛られず、広い視野と高い観点から自分を眺めて見ることも必要なのではないでしょうか。自分の能力を磨く目的の一つに、高い認識力の獲得があるのだから。
 

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