〔原文〕
南宮适、問於孔子曰、羿善射、奡盪舟。倶不得其死然。禹稷躬稼而有天下、
夫子不答。南宮适出。子曰、君子哉若人。尚徳哉若人。
〔読み下し〕
南宮适、孔子に問うて曰わく、羿は射を善くし、奡は舟を盪かす。倶にその死の然るを得ず。禹と稷とは躬ら稼して天下を有つ。夫子答えず。南宮适出ず。子日わく、君子なるかな若き人。徳を尚ぶかな若き人。
〔通釈〕
門人の南容が孔子に、「羿(ゲイ)は弓の達人であり、奡(ゴウ)は舟を持ち上げる程の怪力無双でありましたが、二人とも天寿を全うすることなく非業の死を遂げてしまいました。禹と稷はこれと云った武芸の才がある訳でもなく、自ら農耕に従事していた人物ですが、二人とも天下取りになりました。これは一体何の違いでしょうか?」と問うたが、孔子は答えなかった。南容が退出すると孔子は、「大分練れてきたなあ、あの男は!徳もしっかり身について先が楽しみだ。質問の中にちゃんと答えを見出しておるわい」と云った。
〔解説〕
南宮适 姓は南宮(なんきゅう) 名は适(かつ) 字は子容(しよう)。自分の姪(兄孔孟皮の娘)を嫁がせるくらいですから、南容は余程見所のある人物だったのでしょう。(先進第十一前出)
羿(ゲイ) 夏の時代の諸侯の一人で有窮国の君主。堯の時に天に十個の太陽が現れ、人民が熱で苦しんだ際、堯の命令で九個の太陽を射落としたとされる弓の達人。夏王朝の天子相(しょう)を滅ぼして天子の位を得たが、下臣の寒促(かんそく)に殺されてしまった。
奡(ゴウ) 羿(ゲイ)を殺した寒促の子で、陸(おか)で舟を曳く程の怪力の持ち主であった。夏王相(しょう)の子の小康(しょうこう)に誅殺された。
禹(う) 舜の禅譲により天子となり、夏王朝を興す。黄河の治水に初めて成功した人。(前出) 稷(しょく) 武王の先祖で周の始祖。舜に仕えて人民に農耕を教えた。
通釈の末尾に一文を付け足しておきましたので、南容の質問に何故孔子が答えなかったのか?お分かり頂けるかと思います。問題意識にも、正しい問題意識と間違った問題意識がありまして、正しい問題意識を持った時には、既にその問いの中に答えがふくまれている!ということですね。
南容が、羿(ゲイ)と奡(ゴウ)を才覚(手腕・力量)の人に喩え、禹と稷を徳望(人望・徳性)の人に喩えて質問した意図が、孔子には手に取るように分かったのでしょう。つまり、どんなに才覚に恵まれていても、その人に徳望が欠落していたら、始めはうまく行くかも知れないが長続きしない、徳望がなければトップには立てない、ということを、南容はこの質問をした時点で既に知っていた、ということです。でなければ、一方では羿(ゲイ)と禹をワンセット、もう一方では奡(ゴウ)と稷をワンセットにして、トンチンカンな質問をぶつけていたかも知れない。質問の仕方で、どの程度の人物か?大凡(おおよそ)察しがつくものなんですね。
〔子供論語 意訳〕
弟子の南容が孔子様に、「羿という人は太陽を射落とすほどの弓の名手、奡という人は陸で舟を曳くほどの怪力の持ち主でしたが、二人とも王様になれず切り殺されてしまいました。一方、禹と稷は剣の達人でも力持ちでもないのに、二人とも王様になって人々から慕われました。上に立つ人は、能力や才能よりも、人柄や志が決め手になるのでしょうか?」と質問した。孔子様は何も答えなかった。南容が退席すると孔子様は、「随分しっかりして来たなあ、あの子は!私が答えなくても、ちゃんと答えを知っているではないか。将来が楽しみだ!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
解説で、質問の仕方でどの程度の人物か大凡察しがつく、と申しましたが、これは本当なんです。最近論語の講演をあちこちから頼まれるのですが、その際よく聞かれるのが、「恕(じょ)」についての質問です。
質問される方には大体二通りのパターンがありまして、一は「孔子の教えは恕の一語に尽きると思うが、講師はどう思うか?」というもの。二は「論語と云うと恕を云々する人が結構いるが、孔子の云う恕とは本当はどういう意味か?」というもの。
一は、論語をあまり読んだことのない人であることがすぐバレる質問の仕方です。所謂、受け売りって奴ですね。ここ迄論語を学んで来られた皆さんならばもうお分かりかと思いますが、「恕」なる言葉は今迄に一度も出て来ておりませんし、全510章中たった一箇所にしか出て来ない、極めて特殊な言葉だからです。
衛霊公第十五412章(237頁)で子貢が、「一生の訓戒となるような言葉があるでしょうか?」と問うたのに対し、孔子は、「それは恕かな?」と答えたものの、孔門随一の切れ者であるあの子貢でさえよく理解出来なかったと見えて、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ!」と、喩えを引いて補足説明している。
恕と似た言葉に「忠恕(ちゅうじょ)」なる言葉もありますが、そもそもこれは孔子が述べたものではなく、曽子の言葉です。忠恕も里仁第四81章(43頁)の一箇所しか出て来ません。一般には、恕は「人を思いやる心」、忠恕は「まことと思いやり」と訳されておりますが、これならば仁と同じ意味になる。
しかし孔子は、仁という言葉と分けて恕を使っており、しかも殆ど弟子達に語らなかったということは、所謂孟子の「浩然の氣」と同様、曰く言い難き孔子独自の悟りの境地を表したものであって、云っても弟子達には理解出来ないだろう?と考えていたのではないかと思います。
恕とは、恐らく最奥にして究極の「人類愛」・無前提無条件の「救世の愛」のことではないかと思いますが、そのような救世主(メシア)の如き境地を、我々凡人が理解出来る筈がありません。一生かけて研究しても、孔子の恕は解明出来ないのではないでしょうか。
そこで一の質問者に対しては、「孔子は恕そのものについて何も語っておりませんが、あなたは恕をどのように解釈しているのですか?」と問うと、一瞬ギョッとして「人を思いやる心だと思いますが・・・」と急にトーンダウンして云うので、「それならば仁のことではないですか?仁と恕はどう違うのですか?」と重ねて問うと、「そこが分からないもので・・・・・」と段々怪しい雲行きになって来る。
「だったら、孔子の教えは恕の一語に尽きる!などと、知ったかぶりして云うものではありません。どこかの学者の受け売りでしょう?ところであなたは論語を何回くらい読んでいますか?」と聞きますと、「実はまだ全部読んだことがないもので・・・」と相成る。
二の「恕の本当の意味は何か?」と質問して来る人は、かなり論語を読んでいる人であることがすぐ分かりますから、うっかりしたことは云えません。「恕の本当の意味はを知っているのは、孔子本人だけです。過去2500年間で、孔子以外に分かっていた人は、釈迦とイエス位のものでしょう。ですから当然私にも本当の所は分かりません。分かりませんが、こんなことではないのかな?という見当ならばつけられるかも知れません。
恕という文字を分解してみると、如(ごとき)+心(こころ)となる。では何の如き心なのかと考えてみると、神の如き心ではなかろうか?と察しがつく。神の如き心を持った人間を仏教では“如来(にょらい)”と云い、如来の悟りの境地を“如心”と云います。
如来とはサンスクリット語のtathagata(タタアガタ)を漢訳したもので、タタアガタとは“真理の世界から衆生救済の使命を負って人間界に降りて来た人”という意味だそうです。ですから、如来とは救世の使命を負った人、つまり、救世主のような人のことを云うのですね。その救世主の心境が如心即ち“恕”と考えて良いのではないかと思います。残念ながら私にはここまでしか分かりません。よろしいでしょうか?」と答えますと、「よ〜く分かりました!」と相成る。
『現代人の論語』の著者・呉(くれ)智英(ともふさ)さんは、「昔は、論語読みの論語知らずがいたものだが、現代は論語読まずの論語語りがいっぱいいる!」と嘆いておられましたが、あちこちで講演してみると、こういう人結構いますね。一つの会場に必ず一人や二人はいます、知ったかぶりするのが。ああ、今日はいい勉強をしましたね!
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