〔原文〕
子曰、善人教民七年、亦可以即戎矣。
〔読み下し〕
子日わく、善人民を教うること七年、亦以て戎に即かしむべし。
〔通釈〕
孔子云う、「善き指導者が人民に教育訓練を施せば、七年もする頃には、人民を勇敢な兵士に仕立てあげることができるだろう」と。
〔解説〕
孔子がこのような発言をした背景には、一体どんな事情があったのでしょうか?孔子が大司冦として定公に使えたのは51〜54才迄の四年間でしたが、この頃の魯軍の兵士は話にならぬ程弱卒だったようです。定公の八年、定公は兵を率いて斉に攻め入り、陽州陥楽一歩手前という所迄来たが、兵士達には全く戦意がなく、その場にしゃがみ込んで弓の名手の強弓(ごうきゅう)を回し見してはしゃいでいたと云う。
魯軍に戦意無しと見て取った陽州の精鋭部隊は、ここぞとばかりに反撃に転じ、慌てた魯軍は退却するしかなかった。丁度同じ頃、魯と同様に周を祖と仰ぐ後進国の呉は、王闔盧(こうりょ)が孫武・伍子胥(ごししょ)の両雄をよく引き立て、彼らの指導の下に富国強兵策が徹底し、兵士はよく鍛えあげられ、国力も富み、一大軍事強国に変貌していた。孫武が呉王闔盧に軍師として仕えてから丁度七年が経った頃である。孔子は孫武とは面識がなかったようですが、「呉に孫子あり」の噂は耳にしていたと思われます。そこで「善人民を教うること七年・・・」なる発言となったのではないでしょうか。
〔意訳〕
孔子様がおっしゃった、「優れた指導者の下でみっちり七年間も鍛えられると、普通のチームだったものが、見違えるほどの強豪チームに変身する」と。
〔親御さんへ〕
早稲田実業の優勝で、一人で投げ抜いた斉藤佑樹投手が一躍アイドルになりました。礼儀正しく、謙虚で、素直な所が何とも爽やかですね。あれなら日本中の女性に好かれる筈です。おっかけオバサンの大半は、ヨン様からハンカチ王子「佑ちゃん」に鞍替えしたそうな。
当会に、三十過ぎてもさっぱりモテない男どもがいるようですが、そう云われてみれば、ギラギラ・モソモソ・ネチネチしておって、ちっとも爽やかさが感じられないなあ?みないい所を持っているんだが、今一スカッとしないんだね。何人いるかな・・・?四〜五人はいるか・・・。これ放っておいたら一生嫁に来手がなさそうだから、何とかしなくちゃならんね。
「論語に学ぶ会に入ると、女にもてね〜ぞ!」などと噂されたら困りますから、今度青年部で「爽やかセミナー」でもやりますか!?(オスギかピーコでも呼んで)「もてないから入会したのか?入会したからもてなくなったのか?それが問題だ!」シェークスピア(?)
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