〔原文〕
子路問曰、何如斯可謂之士矣。子曰、切切偲偲、怡怡如也、可謂士矣。
朋友切切偲偲、兄弟怡怡如也。
〔読み下し〕
子路問うて曰わく、何如なるか斯れ之を士と謂うべき。子日わく、切切偲偲、怡怡如たれば、士と謂うべし。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡如たり。
〔通釈〕
子路が、「どういう人を士(さむらい)というのでしょうか?」と問うた。孔子は、「お互いに磨きあい・励ましあい・睦みあうのが士というものだ。朋友との間では磨きあい励ましあうがよい。兄弟の間では睦みあうがよい」と答えた。
〔解説〕
仁侠肌で果断決行の子路からすると、切切(磨きあい)・偲偲(励ましあい)・怡怡(睦みあう)などは間怠(まだる)っこくて、苦手だったのではないかと思われますが、孔子は子路のそういう性格をよく知ったればこそ、苦手な所を矯め直すべく、敢てこのようなことを云ったのではないでしょうか?
尚、辞典では、「切切」とはねんごろなさま・心のこもっているさま・情のせまるさま、「偲偲」とは相手を思って責めるさま、「怡怡」とは喜び楽しむさまとありますが、他ならぬ子路に向かって語っている訳ですから、磨きあい・励ましあい・睦みあうと釈しました。
〔意訳〕
弟子の子路が、「孔子学園のモットーは何でしょうか?」と質問した。孔子様は、「生徒同士、教えあい・励ましあい・助けあうこと、この三つだ。それから、家では兄弟仲良くすること、分かったね!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
親日国フィンランド(人口510万人)の初等教育には、近年目を見張るものがあるそうで、世界中から教育者が視察に訪れているそうです。この国の教育政策の眼目は、「初等教育で一人の落ちこぼれも出さない!」ことにあると云う。理由は、初等教育(基礎教育)さえしっかり身についていれば、後は本人の努力次第でどうにでもなるからだ、ということです。
具体的にはどうか?と云うと、授業の前半は先ず教師がスパルタ式に詰め込み教育をやる。一通り終えると理解度をテストする。採点後、授業の後半は出来た子が出来なかった子に分かる迄教える。教師はそれを観察するだけで口をはさまない。しばらくすると、教室のあちこちから「分かったあ!!」という歓声があがって、教えた子も教えられた子も一緒になって喜んでいると云う。教えることの方が教わるよりはるかに難しいですから、「分かったあ!」と云われた時の喜びはひとしおです。一方教わった方は、分からなかったことが解けた時の知的喜びも、これ又大きい。人間のモチベーションは、楽しみよりも喜びの方が何倍も強力です。教える側も教わる側も、「喜びの共有」を根底に据えたフィンランドの教育ポリシーには、ウームッ!と唸らされました。
孔子学園でも、弟子達は教えあい・励ましあい・助けあって研鑽をつんでいたようです。人間のモチベーションは、どうも、知る<好む<楽しむ<喜ぶの順になっているようですね。臨死体験をした人は一様に、「あの世は歓喜に満ち溢れた世界で、この世に戻りたくなかった」と語っておりますから、「喜び」が魂の本性に近いのかも知れません。
|