〔原文〕
冉子退朝。子曰、何晏也。對曰、有政。子曰、其事也。如有政、雖不吾以、
吾其與聞之。
〔読み下し〕
冉子、朝よリ退く。子日わく、何ぞ晏きや。対えて日く、政有り。子日わく、其れ事ならん。如し政有らば、吾を以いずと雖も、吾其れ之を与り聞かん。
〔通釈〕
冉有が役所から帰ってくるなり、孔子が「どうしてこんなに遅くなったのか?」と云った。冉有は、「国政上の問題があったものですから、遅くなりました」と答えた。孔子は、「それは季氏一族の私事であろう。もし魯の国政問題ならば、今は引退しているとはいえ、国老の私に一言相談があってしかるべきだが、ちょっと変だなあ?」と云った。
〔解説〕
普通であれば、「冉有朝より退く」となる筈ですが、「冉子(冉先生)」と呼ばれているところを見ると、この文章は冉有の弟子筋が残したものでしょう。雍也第六124章でも述べましたが、冉有は優れた政治家として知られた人物でありまして、有若や曽参のような学者ではありません。(論語の中で孔子以外に子(し)付きで呼ばれている弟子は、有子と曽子の二人だけ)現在政治家を○○先生と先生付きで呼びますが、これはどうも冉子がルーツかも知れませんね。
尚、当時国政上の問題は、一応国老が与(あずか)り聞く慣わしがあったようで、孔子のお節介から出た発言ではないようです。季氏の善からぬ企み事に、引っ込み思案の冉有が引きずり込まれて、抜き差しならんことのないよう、牽制球を投げたのではないでしょうか?
この時の冉有の主人は、筆頭家老の季康子で、魯君哀公を凌ぐ実力者でした。角栄全盛時代の早坂茂三のような役回りだったのでしょうかね?
冉有は。汚れ役の榎本ではないでしょう、蜂の一刺しでやられたという記録はありませんから、冉有に。
〔意訳〕
弟子の冉有が役所から帰ると、孔子様は「ずいぶん遅かったねえ、何かあったのかい?」と聞いた。冉有は、「はい、ちょっと政治のトラブルがあったものですから」と答えた。孔子様は、「どんなことかね、そのトラブルは?私も昔政治にたずさわった経験があるから、お手伝いできるかもしれないぞ!?」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
これは、孔子が14年間の亡命生活から魯に帰国した、晩年の会話でしょう。帰国後哀公から大夫就任を求められますが、これを断り、青年教育と五経の編纂に取組みながら、国老として時々魯国の政治相談に与っていたのではないかと思います。
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