顔淵第十二 304

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原文
子曰、君子成人之美、不成人之惡。小人反是。
 
〔 読み下し 〕
子曰(しのたま)わく、君子(くんし)(ひと)()()し、(ひと)(あく)()さず。小人(しょうじん)(これ)(はん)
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「君子というものは、人の美点や長所に光(スポット)を当てて、欠点や失態(ミス)などは見て見ぬふりをするものだ。小人物はこれと逆で、殊更欠点や失態を暴き立て、美点や長所に蓋をする」と。
 
 

〔 解説 〕

我々凡人はどういう訳か長所よりは欠点に、美点よりは失態に目が向きがちです。欠点のない人間などいる訳がないし、美点の全くない人間もいる訳がありませんから、要はどちらに光を当てるか?本人の心掛け次第ということですね。

孔子は、人の美点にスポットを当てるか欠点にスポットを当てるかで、君子か小人かが分かれると云う。君子とは出来た人物、小人とは下らない人物と考えて良いかと思いますが、人の欠点やミスをほじくり出してワァーワァー騒ぐなどというのは、下らない人物のすることなんですね。週刊誌の殆どがこれじゃないのか?と思いながらも、新聞の広告欄に載っている週刊誌の刺激的な宣伝文句についつい目が行ってしまう。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「君達(きみたち)(ひと)長所(ちょうしょ)()めてあげなさい!欠点(けってん)()てはいけません!!」と。
 
〔 親御さんへ 〕

先ほど、現代人は「叱り下手」になったのではないか?という話しをしましたが、同じ位に「褒め下手」になっているのではないでしょうか?人を褒める時は、見るもの聞くもの何でも褒めればいいってもんではない。人にはそれぞれここを分かって欲しい!ここを褒めてもらいたい!という「褒めツボ」がありまして、ピントはずれの所を褒められても嬉しくも楽しくもありません。このツボを外すと、「どこに目をつけているんだろう?この人は!」と、センスを疑われることになる。

そうですねえ、喩えば皆さんよく知っている紅屋重正の大手饅頭、あれは、添加物や膨らし粉を一切使わず、自家製のドブロクを仕込む作業から始まって、一晩かけて天然の発酵の力であのようにふんわりと仕上げている訳ですが、これは大変難しい仕事なんです。気温や湿度や気圧の加減で毎日製造環境が変りますから、標準化が非常に難しい。紅屋さんは創業200年になるけれども、今でも時々石饅頭(発酵不足)や仇膨れ饅頭(発酵過多)が出る。

大手饅頭は、口に含んだ時に、まずその香気を味わってもらいたいんですね、作る側としては。「何とも云えん香気ですなあ」とか、「おお!これは本物だ!!」とかね。こう云われれば椿さんも悪い気はしない、嬉しい。それなのに、いきなり「マア、ふわっふわ!」とか、「アーラ、おいしいアンコ!」などと云われても、ちっとも嬉しくないんだね。マシュマロ屋でもあんこ屋でもないんだから。

これは六白黒豚にこだわる豚かつ梨果園が、お宅のキャベツおいしいね!」と云われているようなものなんだな。嬉しくないでしょう!こだわりの豚かつを褒めてもらえず、どこにでもあるようなキャベツを褒められたって。「家は八百屋じゃない!」と云いたくなるでしょう?

これは私にも経験がありまして、講演が終わってから「いいお話でした!」とか、「感銘を受け
ました!」などと云われれば嘘でも嬉しいけれど、「ネクタイのセンスがいいですね!」とか、「いい声ですね!』などと云われたって、ちっとも嬉しくないんですよ。ファッションショーやっている訳でもコンサートやっている訳でもないんだから。(声を褒めるんなら、私の“慕情"を聞いてからにしてください!ナ〜ンテネ)中には、「声に聞き惚れて、熟睡できました!」などと云う人がいて、愕然とすることがあります。

「褒めツボ」くらいしっかりとつかんでおきなさい!センスを疑われないように。万一褒めツボがつかめなかったら、「さすがですね!」と云ってニコニコしていたら良い、何がさすがなのか分からなくても。相手は、「分かってくれたか!」と勘違いして喜んでくれるから。

ベタ褒めは絶対にやめなさい!「巧言令色鮮し仁」、実のない人間と見られるからね。「すくすく育つ上手な叱り方」の姉妹編として、「品格ある上手な褒め方」でも書きますかな?(何だか益々俗っぽくなって来たなあ…。ネタが尽きたかな?俗っぽい話しなら山ほどあるのだが…)
 

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