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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
柴也愚、參也魯、師也辟、由也喭。
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〔 読み下し 〕 |
柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭。
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〔 通釈 〕 |
柴(子羔)はにぶい。参(曽子)はのろま。師(子張)は見栄坊。由(子路)は武骨。
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〔 解説 〕 |
本章は伝承の途中で冒頭の「子日わく」が抜け落ちたものと思われます。どんな場面でこの言葉が発せられたのか?これだけでは分かりませんが、こうまでズケズケと欠点を指摘するからには、四人が孔子の側に居る時に、面と向かって云ったものでしょう。
恐らく子路は先輩風を吹かせて、「先生、ひとつ先生から見た我々の欠点を教えてくれませんか?」とかなんとか云ったのではないでしょうか?他人様の欠点は良く分かるけれども、自分自身の欠点となると中々分からないものですからね。
孔子は弟子達の性格を知り尽くしていましたから、勿論長所もよく分かっていた。弟子達もそのことは充分承知の上で、「敢えて欠点を教えてくれ!」となったのでしょう。長所だけあって欠点のない人などおりませんし、逆に欠点だけあって長所のない人もいない。一面の長所には必ず反面の欠点が伴っているものです。
人が成功するのは、長所を大いに発揮した時であるのは勿論ですが、どういう訳か失敗するのも又長所によることが多い。不得意な所、自信のない事柄、欠点とすることによって成功することはないけれど、その反面失敗するというのも殆どないのではないでしょうか。
不得意な所では勝負に出ないし、自信のない事柄には積極的に取り組まないし、欠点とすることについては人一倍慎重にならざるを得ませんからね。得意な所、自信のある事柄、長所で失敗してしまう理由は、己を過信するあまり、長所の裏に潜む欠点を見落としてしまうからですね。
ですから、自分の長所を自覚すると同じくらいに、自分の欠点を把握しておくことも大切です。自分で自分の欠点が分からないとなれば、人から指摘してもらう他はない。長所を褒めてくれてる人よりも、欠点をズバリと指摘してくれる人の方が本当はありがたいんですよ。
気分の好いものではないが、自分では分からないからね。欠点を指摘されて、「なにおっ!」とか「心外だ!」などと云っているようでは、まだ尻の青い証拠です。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様が四人の弟子達に「先生から見た私達の欠点を教えて下さい」と頼まれたので、「柴君はとろいのが玉にキズ。参君はのろいのが玉にキズ。師君は見栄を張るのが玉にキズ。由君は荒っぽいのが玉にキズ、といった所かな」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
私達は人の欠点は目に付くけれども、自分の欠点には中々気がつかないものです。だからと云って、ズバリと自分の欠点を指摘されるのも、気分の好いものではないし、人の欠点を面と向かって指摘するのも覚悟が要る。
人に指摘されずとも、何とか自分の欠点に気付く方法はないものか?と云うと、これがちゃんとあるんですね。人の態度を見ていて、特にこれと云った理由もないのに、本能的に「イヤだな!?」と感じてしまうことがあるでしょう?実は、これがあなたの気がつかない自分自身の欠点なんですよ。
自分では意識しないけれども、潜在意識ではちゃんと知っていて、偶々相手が目の前でそれを演じて見せてくれた時、本能的に「イヤだな!?」と感じてしまうんですね。自分自身を鏡に映して見ているようなものですから。
考え方や表現方法や行動様式が自分とそっくりな人を、何となく嫌ってしまうのも、実はこれと関係がある。あまりにも似すぎると、相性が合わないものなんです。ウソだと思うなら、あなたが普段からイヤだな!?と感じている人を、あなたとその人を良く知っているニュートラルな第三者に観察してもらって、忌憚のない感想を求めてごらんなさい?「そっくりだよ!」と云いますから。
頑固な人は頑固な人を嫌います。調子のいい人は(ゴマスリは)調子のいい人を嫌います。辛辣な人は辛辣な人を嫌います。屁理屈屋は屁理屈屋を嫌います。けちん坊はけちん坊を嫌います。見栄張りは見栄張りを嫌います。どうですか?心当たりあるでしょう!?
本能的に嫌ってしまう相手のイヤな面、それがあなたの気が付かないあなた自身の欠点なんですね。人の振り見て我が振り直せ!ってのは、こういうことなんですよ。今日は一つ利口になりましたね。
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