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原文
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作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
子貢問、師與商也孰賢。子曰、師也過、商也不及。曰、然則師愈與。
子曰、過猶不及。
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〔 読み下し 〕 |
子貢問う、師と商とは孰れか賢れる。子日わく、師や過ぎたり、商や及ばず。日わく、然らば則ち師は愈れるか。子日わく、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。
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〔 通釈 〕 |
子貢が、「師と商の器量はどちらが賢(まさ)っているでしょうか?」と問うた。孔子は、「師は何でもやり過ぎる傾向があるし、商はちょっとし足りない所がある」と答えた。そこで子貢は、「では師の方が上ですね?」と重ねて問うと、孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるがごとしで、どちらもどっこいどっこいと云った所だな」と答えた。
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〔 解説 〕 |
「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の出典がこれ。度の過ぎたものはし足りないのと同じで、どちらも適切ではないの意として今日も使われていますね。師とは子張、商とは子夏のことですが、子夏は衛出身で孔子より44才年下、子張は陳出身で48才年下の同世代の人です。子貢は孔子の31才年下ですから、子夏や子張よりは一回り以上先輩ということになります。
子夏・子游・子張の三人はほぼ同世代で、孔子門下では学問上の良きライバルだったようですが、中でも子夏と子張はよく議論し合っていたのではないでしょうか?子張第十九では、三者がそれぞれに自説を主張し合う場面が見られます。
子張はちょっと生意気な所があったようで、先輩の子貢は、子張・子夏二人の後輩を孔子がどのように評価しているのかを知りたかったのでしょう。「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の孔子の答えには、子貢もドキリとしたのではないでしょうか?子貢もやり過ぎの傾向がありましたからね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の子貢が、「師(子張)と商(子夏)の能力はどちらがまさっていますか?」と質問した。孔子様は、「師は何でもやり過ぎる方だし、商はし足りない方だ」と答えた。子貢は「では、師の方が上ですね?」と重ねて問うと、孔子様は、「過ぎたるはなお及ばざるがごとしで、どちらもどっこいどっこいだよ。し過ぎれば出しゃばりと云われるし、し足りなければ役立たずと云われる。し過ぎることもなくし足りないこともなく、ぴったり合っているのが一番だ」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
し過ぎれば「出しゃばりのお節介野郎」とされ、し足りなければ「役立たずの糸瓜(へちま)野郎」とされる。程好く中庸を得るというのは、難しいものです。し過ぎて良いのは仁くらいのものかもしれませんが、これとて、知を欠くと盲愛・溺愛の無謀な「婦女の仁」となって、子供をダメにしてしまいますから、やはり中庸を得ることが肝腎ですね。
近頃は子供を虐待する親が増えているようですが、報道はされないけれども、子供を愛し過ぎて却ってダメにしてしまっているケースを時々見掛けます。徳はすべて仁ベースではあるけれど、義を欠いた仁は「宋襄の仁」(無用な情け)となり、礼を欠いた仁は「禽獣の仁」(野放し)となり、知を欠いた仁は「婦女の仁」(溺愛)となり、信を欠いた仁は「ペットの仁」(愛玩)となりますから、仁の土台に、義・礼・知・信の四本柱をしっかりと打ち立てることがどうしても必要です。
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