〔
原文
〕
作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
子曰、由之瑟、奚爲於丘之門。門人不敬子路。子曰、由也升堂矣。
未入於室也。
|
〔 読み下し 〕 |
子日わく、由の瑟、奚爲れぞ丘の門に於てせん。門人、子路を敬せず。
子日わく、由や堂に升れり。未だ室に入らざるなり。
|
〔 通釈 〕 |
孔子が、「由の琴の腕前は、私の家で弾くには今一だな」と云った。これを聞いた弟子達が子路を軽んじ始めたので、孔子は弟子達に向かって、「由の腕前は喩えてみれば、表座敷に上がるには充分だが、奥座敷に上がるには今一つと云う意味で云ったのだ。勘違いするな!」とたしなめた。
|
〔 解説 〕 |
いつもいかつい子路が琴を弾いている様は、どんなものだったのでしょうか?目を吊り上げ、肩をいからせて、げつばたしながら弾いていたのではないでしょうか?楽器演奏の上手下手は素人が聴いても分かりますから、後輩の弟子達も子路の腕前は大したことない!と、普段から見縊(くび)っていたのでしょう。
そんな所に持って来て、人前で孔子に「お前の腕前は今一だ!」と云われたものですから、「それ見たことか!?」となって、音楽の才以外の子路の全人格をも侮るようになってしまった。孔子も「こりゃいかん!」と思ったのでしょう、「たった一つの特性を以てして、それが全てであるかのように甲乙のレッテルを貼るな!!」となった。
「由や堂に升れり・・・云々」は、子路をかばった発言とも取れますが、孔子の真意は、たった一つを以て全体を決め付けるな!と云いたかったのではないかと思います。これは我々凡人によく有りがちなことです。週刊誌のキャプションは殆どがこれでしょう?人にはそれぞれ得手不得手・向き不向き・長所短所・強味弱味がありますから、不得手・不向き・短所・弱味の一側面だけを見て、全人格を否定してしまうようなことは、絶対に慎まなければなりません。
全知全能で完全無欠な人など、一人もいないんです。良い所よりも悪い所の方が三倍目に付くものなんですね。ですから、人の欠点が目に付いたら、七割差し引いて見て上げたらいい。考えていた程ひどいものではないことが分かります。
|
〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様が、「由(子路の名)の琴の腕前は、私の家で演奏するにはいまいちと
いった所だね」とおっしゃった。これを聞いた後輩の弟子達は、普段から子路の腕前をみくびっていたので、「それ見たことか!?」と、だんだん子路をなめるようになった。これに気付いた孔子様は、「琴の腕前だけで人を判断してはいけない!人にはそれぞれ得意不得意があるのだから、たった一つの側面を見て、これがその人の全体像だ!と決めつけてはいけません!!」と弟子達を叱った。
|
〔 親御さんへ 〕 |
私達はどういう訳か、長所よりも欠点が目につくものですから、その人のあるがままを受け容れるということが中々できません。270章に「できの良い子も悪い子も、我が子は皆かわいいものだ!」とあるように、身内に対しては無前提無条件で受け容れることはできても他人となると、無意識のうちに何らかの条件や前提をつけてしまう。
「一事が万事」という俗諺があるけれども、一事を見れば他の全ての事を推察できる人など滅多におりません。寧ろ「一事両様」、置かれた立場や環境によって、一つの事が正反両様、否、三様にも四様にも多様に見えてしまうのが現実です。
だがしかし、この多様な現実を無視して、殆どの人が自分の置かれた立場から見える一面を以て一様のレッテルを貼りたがる。あれはこうだ!と決めつけたがる。どうもこれがそもそもの間違いの元であるようですね。みんなで明き盲ごっこをやっているようなものです。
前から見たら後からも見る、右から見たら左からも見る、上から見たら下からも見てみる、つまり、一つの物事を前後・左右・上下の六面から見てみれば、受け容れられない人などいなくなってしまうのではないでしょうか?排他的になどなっていられないんですよ、こっ恥ずかしくて。サイコロだって六つの目を持っているのだから。
|