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原文
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作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
季路問事鬼神。子曰、未能事人、焉能事鬼。曰、敢問死。曰、未知生、
焉知死。
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〔 読み下し 〕 |
季路、鬼神に事えんことを問う。子日わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。日わく、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
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〔 通釈 〕 |
子路が、「神霊に仕えるにはどうしたら良いか?」と質問した。孔子は、「まだ人に充分仕えることができないのに、どうして神霊に仕えることなどできようか」と答えた。
期待外れの答えに子路は、「ならば敢えて問いますが、死後の世界はどのようなものでしょうか?」と重ねて問うた。孔子は「まだ本当に生きることも知らないで、どうして死後のことなど分かろうか」と応えた。
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〔 解説 〕 |
前にも云いましたが、この当時今で云うオカルトブームのようなものがあったようで、子路はオカルト好きの傾向があったようですね。
何度も申し上げているように、この世もあの世も、はるか遠く離れた全く別の世界というものではなくて、この世は魂が肉体を着て生きている世界、あの世は肉体を脱ぎ捨てて魂だけで生きている世界ですから、本人の意識そのものに変りがある訳ではありません。この世にある時に、私利私欲の固まりで生きて来た人間が、あの世に還ったからと云って、いきなり仏の心境になれるものではありません。
この世は仏の心境を持った人も地獄の心境を持った人も、玉石混淆でワッショイワッショイとやっておりますが、あの世は意識の数に見合った世界が無数に展開されておって、波長同通の法則下で似た者同士がそれぞれにグループを作って生きている。
意識のレベルによって住む世界が截然(せつぜん)としておりまして、この世で仲間だった・同僚だった・部下だった・後輩だった・恋人だった・夫婦だった・親子だったからと云って、いつでも好きな時に自由に会えるというものではないんですね。
本人の意識が変る迄は、お互い干渉も交渉もできないようになっている。死後どの世界の住人になるかは、玉石混淆のこの世で、いかに思い・いかに語り・いかに為したか?つまり、どのように生きたか?で決まります。
ですから、子路の質問に対する孔子の答えは、一見突き放したかのように思えるけれども、よく考えてみれば、誠に親切に真理を語っている訳ですね。この世は、魂が一大飛躍する場でもあり、一大堕落する場でもある。いずれも、いかに生きるか!?にかかっている訳です。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の子路が、「神様のお手伝いをするには、どうしたら良いでしょうか?」と質問した。孔子様は、「まだ人のお手伝いもろくにできないのに、どうして神様のお手伝いなどできようか」と答えた。子路はさらに、「では、死後の世界はどうなっているのでしょうか?」と質問した。これに対して孔子様は、「まだどうしたら立派に生きられるかも分からないのに、死んだ後のことを心配しているひまはないよ」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
私達人間一人一人は、みな神の分身・神の分御霊(わけみたま)であって、神の無限の生命(いのち)を生きている存在、神の生命そのものなのだ!と、合同例会で申し上げました。欠席された方はホームページにその時の講義録が掲載されておりますから、そちらをご覧下さい。
ですから人のお手伝いするということは、神様のお手伝いをするのと同じことなんですね。神ははるか彼方の、我々人間とは隔絶した存在と思っている方がおられるようですが、そうではないんです、一体なんです。
そうですねえ・・・、神を人間の体に喩えてみると、人間一人一人は細胞のようなもので、手の細胞をやっている人も居れば、足の細胞をやっている人も居る。目の細胞をやっている人も居れば、脳の細胞をやっている人も居る。各細胞は意識しないかも知れないが、総て人体として一体のものです。分離孤立して存在することはできません。
この人間の体を、地球大→銀河大→宇宙大に拡大したものが神と考えて良いでしょう。目に見える世界も目に見えない世界も含めて、極微から極大に至るまで。これを万物斉同・自他一体と云ったり、一即全・全即一と云ったりしますが、肉体我にとらわれ肉の感官に振り回されてしまうと、このことをすっかり忘れて、それぞれがバラバラに分離した存在だと錯覚してしまうんですね。これを偽我・偽者の我という訳ですが、このことが分かれば、世の本物か偽者かを見分けることはそんなに難しいことではないんです。
曰く、分離を前提に組立られた観念や教義や理論、そしてそれを前提に展開される思想や宗教や学問、更には、これらを無自覚無前提に受け入れて為される思考や主張や行為、即ち、それらの集積である所のその人の生き方そのもの(人生)、こういうものがキネシオロジーテストで云う所のログ200未満「バカの壁」を破れない状態、偽我を真我と錯覚した、偽りの人生なんですね。
ところが、こうまで云ってもまだ分からない人もいる。そうですねえ、どう云ったらいいかなあ?ああそうだ、自分の知らないことに対して否定する傾向のある人、目に見えない世界の話しを聞いた時に、深く考えもせず条件反射的に「ある筈がない!」と否定してしまう傾向のある人、こういう人は危ないね。
分離を前提にした観念や教義や理論、思想や宗教や学問、思考や主張や行為、こんなものはみんなガラクタです!ガラクタを宝物と勘違いして、後生大事に守り続けているバカがどこにおりますか!?一度きれいさっぱり心の中から投げ捨ててみなさい!放下してスパッと前後を裁断してみなさい!!そうすればすっかり生れ変れる。
エッ?私がこうまでしつこく云うからには、もしかしてこの中に修羅・畜生・餓鬼・地獄の意識レベル(ログ200未満)の人がいるのではないか、ですって?大丈夫、今・ここには居りません。但し、家に帰ったらどうかは分かりませんが。まあそうだね、毎月一回の例会は、心に溜まったガラクタを投げ捨てる場だと思って来なさい。すっきりするから、ぜ〜んぶ捨てて行きなさい。
ただどういう訳か、ガラクタを溜め易い人程欠席が多いんだなあ。困ったもんだね。でもまあいいか、一度にドカッと捨てて行けば良い。
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