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原文
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作成日 2005年(平成17年)7月から9月 |
子、見齊衰者、雖狎必變。見冕者與瞽者、雖褻必以貌。凶服者式之。
式負版者。有盛饌、必變色而作。迅雷風烈、必變。
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〔 読み下し 〕 |
子、斉衰の者を見ては、狎れたりと雖も必ず変ず。冕者と瞽者とを見ては、褻と雖も必ず貌を以てす。凶服の者には之に式す。負版の者に式す。盛饌有れば、必ず色を変じて作つ。迅雷風烈には、必ず変ず。
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〔 通釈 〕 |
孔子は、喪服を着た人に会うと、親しい間柄の人であっても、必ず襟を正した。礼服を着た高官や盲人に会う時は、親しい友人であっても、必ず容貌を引き締めた。喪服を着た人に出会うと、どんな人に対しても馬車の上から御辞儀をした。葬儀に携わる人に対しても御辞儀をした。御馳走を頂いた時には、表情を改め、立ち上がって主人に礼を云った。激しい雷鳴や烈風の時は、天を懼れるかのように居住まいを正した。
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〔 解説 〕 |
負版者を、戸籍簿を担いで運搬する役目の小役人と解するのが一般的ですが、当時の戸籍簿は、大の男が担がなければならないほど、重くて大きなものだったのでしょうか?確かにこの頃はまだ紙もなく、墨も筆もない時代で、木簡に、細く削った棒の先に漆をつけて文字を書いていたようですが、木簡のサイズなどたかが知れている。片手で持てるサイズです。
戸籍簿だけどうしてそんなに大きくしなければならんのか?ちょっと不自然です。「版」は版籍(戸籍簿)の他に、棺桶の横板の意味もありますので、ここでは負版者を棺桶を担ぐ人、つまり葬儀屋さんと解しました。或いはこの当時、遺体埋葬後卒塔婆のようなものを立てる習慣があったのかもしれません。この卒塔婆のことを「版」と云ったのかも知れない。これならば、版を担いで運ばなければなりませんから、それを背負う役目の人がいても不思議ではない。ひょっとすると、この「版」が卒塔婆のルーツかも知れませんよ!?
こうなると益々以て坊さんの旗色が悪くなるねえ?卒塔婆まで儒教の仕来たりを拝借したってことになるんだからね!?尚、259章・260章は合わせて一章とするのが一般的ですが、テキストに従い別章としました。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様は、喪服を着た人に会うと、たとえその人が親しい友人であっても、深くおじぎをした。正装した同僚や親しい盲人の音楽家に会う時も、深々とおじぎをした。喪服を着た人ならば、どんな人に対しても馬車の上からおじぎをした。葬儀にたずさわっている葬儀屋さんに対してもおじぎをした。ごちそうをいただいた時は、立ち上がってお礼をいった。激しい雷雨や強風の時は、居住まいを正して天地の神々に祈りを捧げ、畏敬の念を表わした。
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〔 親御さんへ 〕 |
孔子の時代(2500年前)の死生観がどのようなものであったかと申しますと、「魂(こん)魄(はく)」という考え方がありまして、魂(こん)と魄(はく)が一体となっている状態を人の生とし、魂と魄が離れて魂は天へ、魄は地へと還った状態を人の死としていたようです。
理屈から云えば、天から魂を、地から魄を呼び寄せて合体させれば人は蘇ることになる訳ですが、魄(肉体)は既に朽ち果てて残っておりませんから、これ(魄)に代る代理の者が必要となる。(尸・形代、即ち代理の者の意)この代理を務めていたのが巫女(みこ)でありまして、孔子の母顔微在はこれを生業(なりわい)としていた訳です。今で云う恐山の口寄せ(イタコ)のようなものだったのではないでしょうか?
前にも云いましたように、招魂を行う際は、巫(ふ)・祝(しゅく)・史(し)の三人が一組になって招魂儀式を執り行っていたようです。
巫・・・口寄せ(霊を寄り付かせ語らせる役目)
祝・・・本物の霊かどうかを判別する審神者(さにわ)
史・・・記録係
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