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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)3月から6月 |
子謂顔淵曰、惜乎。吾見其進也。未見其止也。
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〔 読み下し 〕 |
子、顔淵を謂いて日わく、惜しいかな。吾其の進むを見るなり。未だ其の止まるを見ざるなり。
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〔 通釈 〕 |
孔子が、亡くなった顔淵のことを想い出して云った、「本当に惜しい人を亡くしたなあ。私は彼が日夜精進している姿をいつも目の当りにしておったが、途中で投げ出すような姿はついぞ見たことがなかった」と。
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〔 解説 〕 |
先進第十一、顔淵が亡くなった時の様子が語られておりますが、孔子教学の継承者と期待していた愛弟子に先立たれて、楽天家の孔子もさすがにがっくり来たようです。前章と本章以外にも、顔淵を追想して語ったと思われるものが数箇所あります。
晩年の三年間に、息子の鯉→顔淵→子路と相次いで亡くしておりまして、孔子教学は曽子→子思(孔子の孫)→孟子へと継承されて行くこととなります。考えようによっては、もし顔淵が長生きしていたら、曽子や子思の出る幕がなかったかも知れず、儒教は学問として成立しなかったかも知れない。何しろ顔淵は、口数の少ない実践一途の人でしたから。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様が、亡くなった顔淵のことを思い出して、「おしいことをしたなあ。私はあの子がうまずたゆまず努力し続ける姿を見たことはあるが、いまだかつて怠けた姿を見たことがない」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
倦まず弛まず努力し続けることなど、そうそう出来るものではない!?と考えるかも知れませんが、できないことでもない。学んだこと・教わったことの全部が全部を「倦まず弛まずやれ!」となると、「勘弁してくれ!」となりますが、好きなこと・得意なことを倦まず弛まずやれと云うのであれば、そう難しいことではないでしょう。
好きなこと・得意なことであれば、努力するのに苦痛は伴いませんからね。むしろ楽しくて、やり過ぎの方が心配になるのではないでしょうか?読み・書き・算数が出来れば、生きて行くのに不自由しませんから、あとは音楽でも絵でもスポーツでも、子供の好きなことを伸び伸びとやらせてみたらどうでしょうか?顔さえ見れば「アレしろ!コレしろ!」では、子供は鬱病になってしまいます。何か一つで良いから、努力することを体で覚えさせればいいんです。
満遍なくやらせようとすると、満遍なくサボることを覚えてしまって、努力の文字は分かっても、意味が分からない子になってしまう。努力には、集中力・忍耐力・持続力が伴いますから、要はこれを身に付けてくれればいいんです。一つでいい!一つで。
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