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原文
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作成日 2005年(平成17年)3月から6月 |
子在川上曰、逝者如斯夫。不舎晝夜。
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〔 読み下し 〕 |
子、川の上に在りて日わく、逝く者は斯の如きか。昼夜を舎かず。
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〔 通釈 〕 |
ある時孔子が川の流れを見つめながらポツリと云った、「過ぎ去って行くものはすべてこの川の流れのようなものだ。昼となく夜となく一時もとどまることがない」と。
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〔 解説 〕 |
孔子とほぼ同時代、これと同じことを云った人物が二人おります。インドでは釈迦が「諸行無常」(万物は常に変化して少しの間もとどまらない)と云い、ギリシャではヘラクレイトスが「万物流転」(同じ川の水に二度入ることはできない)と云った。
この世で唯一変わらないのは、「万物流転・変化常道の理法のみ」ということですが、往々にして私達はこのことを忘れ、現状の物や金や体や肩書に固執してしまう。生→老→病→死は万人平等に訪れますが、物も金も体も肩書もどれ一つとしてあの世には持って帰れない。唯一あの世に持って帰れるのは、普段の想い、つまり、心だけ!
生きている人間に人格があるように、肉体を脱ぎ捨てた魂には霊格がある。霊格は何で決まるか?と云えば、老子の講義でお話ししたように、生きていた時の「心の状態・想いの中身」で決まるんですね。人には夜叉の心もあれば仏の心もある。
前回の余説で「十界互具」の話しをしましたが、下から地獄界→餓鬼界→畜生界→修羅界→人間界→天上界→声聞(しょうもん)界→縁覚(えんがく)界→菩薩界→如来界の何処に帰るかは、普段のあなたの「心の状態・想いの中身」即ち、仁の土台を何処迄深く掘れたか!?で決まるんです。
2月度の推薦図書にあげたA・ファーニスの「死後世界地図」と「スピリットランド」を皆さんお読みになったようですが、自分のことしか考えなかった人は、フランチェッツォと同じことになります。あそこに書いてある世界は、人間界以下の修羅・畜生・餓鬼・地獄の世界の様相でありまして、散々苦労して漸く人間界に上がって来る迄の様子が描かれている。
あと数十年もすれば私達全員があの世に帰る訳ですが、まあ十年以上も論語に学んで来た皆さんならば、そうですねえ、声聞界か縁覚界には帰れる筈ですから(一〜二を除いて?)あの世で又いつでも会えるでしょう。「人間は肉体がすべて、死んでしまえば一巻の終わり!」と思っているとしたら、相当ヤバイですよ!!あそこに出てくる「灰色の石の谷」以下の世界に落ちることは確実です。読んでいない方も危ないな。必ず読んで下さいね!まだ間にあいますから
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〔 子供論語 意訳 〕 |
ある時孔子様が川の流れを見つめながらポツリとおっしゃった、「すべてはこの川の流れのように過ぎ去って行く。昼夜を問わず一時もとどまることがないのだ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
これは「川上歎(せんじょうたん)」或は「川上(かわかみ)の嘆(たん)」と云う有名な文章です。一種の「無常感」(諸行無常・万物流転)だと思うのですが、この時に孔子は「死生命あり、富貴天にあり」と看破したのではないでしょうか?更に、「死生命あり、富貴天にあり」の人生にあって、限りなく進歩・向上して行く為の方法論として「中庸の原理」を発見し、これを説いたのではないか。
釈迦は、「この世は苦なり!」と看破して「四苦八苦」を悟ったと云う。
四苦八苦とは、
生(しょう)・・・・・・・・・・・この世に生まれる苦しみ
老(ろう)・・・・・・・・・・・・老いる苦しみ
病(びょう)・・・・・・・・・・・病む苦しみ
死(し)・・・・・・・・・・・・・死ぬ苦しみ(ここ迄が四苦)
愛別離苦(あいべつりく)・・・・・愛する者と別れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)・・・・・怨み憎む者と出会う苦しみ
求不得苦(ぐふとっく)・・・・・・求めても得られぬ苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく)・・・・肉体諸機能「色・受・想・行・識」に
縛られる苦しみ (これで八苦)
の八つですが、四苦八苦の人生にあって、人として限りなく進歩・向上して行く為の方法論として「中道の原理」を発見し、これを説いた。
釈迦といい孔子といい、聖人は考えることが違いますね。我々凡人が川の流れを見ても、せいぜい「今日は濁っているから上流で雨が降ったかな?」程度ではないでしょうか?
人生無常を感ずるのは、昨日迄元気だった友や後輩が、急逝してしまった時くらいのものではないでしょうか。(でも又すぐに忘れてしまいますね、凡人はイザ自分が死ぬ時になる迄、死ぬのは他人事と思っていますから)
色(しき・物質・肉体)も、受(じゅ・感受作用)も想(そう・表象作用)も、行(ぎょう・意志・記憶)も、識(しき・認識作用)も、人は皆同じ機能を持っているのに、聖者と凡夫ではどうして性能がこんなに違うのでしょうか?霊格ですかね!
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