子罕第九 216

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原文         作成日 2005年(平成17年)3月から6月

子曰、吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我、空空如也。
我叩其兩端、而竭焉 。
 

〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(われ)()ること()らんや。()ること()きなり。鄙夫(ひふ)()りて(われ)()うに、空空(こうこう)(じょ)たり。(われ)()両端(りょうたん)(たた)いて()くす。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「私は世間で云うほど物知りだろうか?いやそんなことはない。たとえ無学文盲のつまらぬ男が問うて来て、何をいいたいのかさっぱり要領を得ない質問であっても、ツボを押さえて答えてやるから、人は私が物知りに見えるのであろう。まあ聞き上手なだけだよ」と。
 

〔 解説 〕
 

これは孔子を見習わないといけませんな。気が短いものですから、要領を得ないことをダラダラ話されると、「一体何が云いたいの!?」とついつい云ってしまう。「云いたいことに優先順位をつけて、箇条書きにしてくれませんか?」などと云おうものなら、こういうタイプの人は完全にパニックに陥る。毛が一本足りないんじゃないか?と思っていると、損得勘定だけはしっかりしていて、油断できない所がある。いるでしょう?皆さんの身の周りにも、こういう人が。

弟子の樊遅がどうもこういうタイプだったようで、雍也第六で、仁を問われた孔子は「仁者は難(かた)きを先にして、獲(う)ることを後にす!」と答えている。相手の気根に合わせて話しをすることを「対機話法」と云いますが、これは中々難しい。自分のやり方に無理矢理合わせてもらおうとする。自分の都合に合わせるか?相手の都合に合わせるか?が、凡人と偉人の境目なのかも知れません。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(わたし)世間(せけん)でいわれるほどのもの()りではないんだよ。たとえ口下手(くちべた)(ひと)質問(しつもん)して()て、ピンボケの(はな)しをしたとしても、よーく()いて(こた)えてあげるから、(ひと)(わたし)をもの()りと(かん)ちがいするんだね。本当(ほんとう)()上手(じょうず)なだけなんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕

若いころ祖母に「人様の話はしまいまでちゃんと聞きなさい!」と叱られたものですが、未だに苦手ですね、要領を得ないことをダラダラ喋べる人は。腹は立たなくなりましたが、相変わらずイライラする。知人に聞き上手の名人がおりますので、ある時、何か秘訣でもあるのか?と聞いてみましたら、「何もない」との答え。「イライラしませんか?」と問うと、「しない」と云う。「どうしてですか?」と重ねて問いますと、「聞いているだけで、聴こうとしないから。それだけ」とのこと。うーむ!!と唸らされてしまいました。

これって一種の悟りですよ、「聞いているだけで聴こうとしない」などというのは。なるほどなあー!?と納得するのに、しばらく時間がかかりました。荘子の云う「将(おく)らず迎(むか)えず、応(おう)じて蔵(ぞう)せず」の心境ですよ、これは。

孔子の言葉で云えば「六十にして耳順い」の心境、仏教で云えば「菩薩」の心境ですね。「寛如(かんじょ)」の心を体するのは、本当に難しい。まだまだですね。皆さんも一緒に考えてみませんか?「聞く(hear)」と「聴く(listen)」の違いを。

  聞(もん)   =耳+門(閉ざされて中が良く分からない)
            =良く分からなかった事が耳に入って来るの意
                           (音声が自然に耳に入って来るの意)。

   聽(ちょう)=耳+悳+壬(問い質【ただ】す)
         =よく聞いて正しく裁くの意(耳をそば立てて聴くの意)

つまり、ジャッジ(裁き)の気持を持たず、あるがまますべてを受け入れて聞くのが「聞(もん)」、ジャッジの気持を持って、弁別しながら聴くのが「聴(ちょう)」ということですね。

議論や討論や裁判の場合は「聴(ちょう)」でないと用事が足りないかも知れませんが、それ以外は「聞(もん)」で聞いた方がいいようですね。難しいね。「女性の長電話」も、一概に馬鹿と決め付けられませんね、あれは100%「聞(もん)」のようですから。
 

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