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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)3月から6月 |
子曰、吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我、空空如也。
我叩其兩端、而竭焉
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〔 読み下し 〕 |
子日わく、吾知ること有らんや。知ること無きなり。鄙夫有りて我に問うに、空空如たり。吾其の両端を叩いて竭くす。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「私は世間で云うほど物知りだろうか?いやそんなことはない。たとえ無学文盲のつまらぬ男が問うて来て、何をいいたいのかさっぱり要領を得ない質問であっても、ツボを押さえて答えてやるから、人は私が物知りに見えるのであろう。まあ聞き上手なだけだよ」と。
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〔 解説 〕 |
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これは孔子を見習わないといけませんな。気が短いものですから、要領を得ないことをダラダラ話されると、「一体何が云いたいの!?」とついつい云ってしまう。「云いたいことに優先順位をつけて、箇条書きにしてくれませんか?」などと云おうものなら、こういうタイプの人は完全にパニックに陥る。毛が一本足りないんじゃないか?と思っていると、損得勘定だけはしっかりしていて、油断できない所がある。いるでしょう?皆さんの身の周りにも、こういう人が。
弟子の樊遅がどうもこういうタイプだったようで、雍也第六で、仁を問われた孔子は「仁者は難(かた)きを先にして、獲(う)ることを後にす!」と答えている。相手の気根に合わせて話しをすることを「対機話法」と云いますが、これは中々難しい。自分のやり方に無理矢理合わせてもらおうとする。自分の都合に合わせるか?相手の都合に合わせるか?が、凡人と偉人の境目なのかも知れません。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「私は世間でいわれるほどのもの知りではないんだよ。たとえ口下手の人が質問して来て、ピンボケの話しをしたとしても、よーく聞いて答えてあげるから、人は私をもの知りと勘ちがいするんだね。本当は聞き上手なだけなんだよ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
若いころ祖母に「人様の話はしまいまでちゃんと聞きなさい!」と叱られたものですが、未だに苦手ですね、要領を得ないことをダラダラ喋べる人は。腹は立たなくなりましたが、相変わらずイライラする。知人に聞き上手の名人がおりますので、ある時、何か秘訣でもあるのか?と聞いてみましたら、「何もない」との答え。「イライラしませんか?」と問うと、「しない」と云う。「どうしてですか?」と重ねて問いますと、「聞いているだけで、聴こうとしないから。それだけ」とのこと。うーむ!!と唸らされてしまいました。
これって一種の悟りですよ、「聞いているだけで聴こうとしない」などというのは。なるほどなあー!?と納得するのに、しばらく時間がかかりました。荘子の云う「将(おく)らず迎(むか)えず、応(おう)じて蔵(ぞう)せず」の心境ですよ、これは。
孔子の言葉で云えば「六十にして耳順い」の心境、仏教で云えば「菩薩」の心境ですね。「寛如(かんじょ)」の心を体するのは、本当に難しい。まだまだですね。皆さんも一緒に考えてみませんか?「聞く(hear)」と「聴く(listen)」の違いを。
聞(もん) =耳+門(閉ざされて中が良く分からない)
=良く分からなかった事が耳に入って来るの意
(音声が自然に耳に入って来るの意)。
聽(ちょう)=耳+悳+壬(問い質【ただ】す)
=よく聞いて正しく裁くの意(耳をそば立てて聴くの意)
つまり、ジャッジ(裁き)の気持を持たず、あるがまますべてを受け入れて聞くのが「聞(もん)」、ジャッジの気持を持って、弁別しながら聴くのが「聴(ちょう)」ということですね。
議論や討論や裁判の場合は「聴(ちょう)」でないと用事が足りないかも知れませんが、それ以外は「聞(もん)」で聞いた方がいいようですね。難しいね。「女性の長電話」も、一概に馬鹿と決め付けられませんね、あれは100%「聞(もん)」のようですから。
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