子罕第九 211

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原文             作成日 2005年(平成17年)3月から6月
子曰、麻冕禮也。今也純儉。吾從衆。拜下禮也。今拜乎上泰也。雖違衆、
吾從下。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、麻冕(まべん)(れい)なり。(いま)(いと)なるは(けん)なり。(われ)(しゅう)(したが)わん。(しも)(はい)するは(れい)なり。(いま)(かみ)(はい)するは(おご)れるなり。(しゅう)(たが)うと(いえど)も、(われ)(しも)(したが)わん。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「麻の冠が古来からの礼装であるが、養蚕が発明されてから、今では絹が一般的になった。これは手間暇が省けて経費を節約できるから、私は皆のやり方に賛成したい。

下臣は堂下で主君に拝礼するのが古来からの正式な礼儀であるが、今では手間を省いて主君と同じ堂上で拝礼するようになった。これは泰(おご)った態度であるから、皆のやり方に賛成できない。時代遅れと云われようとも、私は古来からの礼儀に従って堂下で拝礼するつもりだ」と。
 

〔 解説 〕

孔子は何が何でも昔からのしきたりを守れ!というような野暮ではありません。道理に叶えば従い、道理に違えば改める、物事に固執しない非常に柔軟な発想の持ち主だったようで、真の意味での「合理主義者」だったのでしょう。

ただ、必ずしも生れつきそういう性格ではなかったようで、滑ったり転んだりしながら自らを矯め直し、鍛え上げて行った様子が次章で語られております。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(むかし)(あさ)(かんむり)流行(りゅうこう)していたが、(つく)るのに手間(てま)(ひま)がかかって大変(たいへん)高価(こうか)であった。(いま)(きぬ)(かんむり)流行(はや)っている。これは養蚕(ようさん)機織(はたおり)技術(ぎじゅつ)発達(はったつ)したおかげでムダが(はぶ)け、安価(あんか)高品質(こうひんしつ)(かんむり)()(はい)るようになったからである。(わたし)もこれをまねて(きぬ)(かんむり)()えた。(また)(むかし)殿様(とのさま)におじぎをする(とき)(した)(かい)から(うえ)(あお)()るようにしたものだが、(いま)面倒(めんどう)くさがって(おな)(かい)(なら)んでおじぎをするようになった。これは家来(けらい)として大変(たいへん)無礼(ぶれい)なことであるから、(わたし)はまねる(わけ)にはいかない。(ふる)くさいといわれるかも()れないが、(わたし)(むかし)のやり(かた)でやる」と。
 
〔 親御さんへ 〕
養蚕がいつ頃誰によって発明されたのか定かではありませんが、孔子の頃、麻よりも絹の方が安かったとありますから、既に養蚕が盛んで絹織物の技術もかなり進んでいたのでしょう。

道理に叶っていることを「合理」と申します。これに「化(ばける)」が加わって合理化となると、良い意味ではムリ・ムダ・ムラを省き効率化する意となり、悪い意味ではもっともらしい理由をつけた自己正当化・所謂「ごまかし」の意となる。

孔子が麻の冠を絹製に変えたのは前者の合理化、堂上で主君と並んでおじぎをするのは後者の合理化ということですね。企業経営でも、合理化する際には、本当に道理に叶ったことなのか否か?を充分吟味してから取り組まないと、とんでもないことになってしまいます。
 
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