述而第七 175

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原文               作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、聖人吾不得而見之矣。得見君子者、斯可矣。
子曰、善人吾不得而見之矣。得見有恆者、斯可矣。

亡而爲有、虚而爲盈、約而爲泰。難乎有恆矣。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、聖人(せいじん)(われ)()(これ)()ず。君子者(くんししゃ)()るを()ば、()()なり。()(のたま)わく、善人(ぜんにん)(われ)()(これ)()ず。(つね)()(もの)()るを()ば、()()なり。()くして()りと()し、(むな)しくして()てりと()し、(まず)しくして(ゆた)かなりと()す。(かた)いかな(つね)()ること。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「私はまだ聖人と云われる程の人物に出会ったことがない。出来た人物に出会えれば先ず以て良しとしよう」と。又言葉を継いで、「根っからの善人という者にもお目にかかったことはないが、恒心のある人物に出会えればまずまずだ。恒心のある人は、無くても有ると思い、虚しくても盈ちていると感じ、貧しくとも泰然としているものだが、近頃は恒心のある人物に出会うことさえ難しくなったなあ」と云った。
 
〔 解説 〕

この章の後段の解釈は、古注に添って「無いのに有るかのように見せ掛け、中身が乏しいのに充実しているかのように見せ掛け、貧しいのに豊かであるかのように見せ掛ける者が多いが、このような人が常に変わらぬ心映えを保つことは難しいことだ」とするのが一般的ですが、これですと、無いなら無い・乏しいなら乏しい・貧しいなら貧しいと、虚勢を張らないことが恒心ということになる。

恒心とは、有ろうが無かろうが・乏しかろうが満ち足りていようが・貧しかろうが豊かであろうが、置かれた状況に関係無く常に変わらぬ心映えを云う訳ですから、古注は採用しませんでした。

孔子の孫である子思の門に学んだ孟子は、恒心について次のように語っている。「恒産(こうさん)無くして恒心(こうしん)有る者は、唯(ただ)士のみ能くすることを為す。民の若きは恒産無ければ、因(よ)って恒心無し。苟(いやしく)も恒心無ければ、放辟(ほうへき)邪侈(じゃし)為さざる無きのみ・(一定の収入がなくても常に正しい道を守り抜く心を保ち続けることは、ただ学問修養のできた士だけが行ない得るものだ。人民などは恒産がなければ恒心を保てないのが普通である。かりそめにも人にして恒心がないならば、状況次第で我侭・気侭・欲しい侭に何でも平気でやってしまわぬものはない)」と。

「武士は食わねど高楊枝」という気位も、時には必要なんですね。見せ掛けでも・空元気でも・痩せ我慢でも、しなければならん時があるんです、恒心を保ち続けるには!
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)()おっしゃった、「立派(りっぱ)人物(じんぶつ)()かけなくなったねえ?まあ(おり)()(ただ)しい(ひと)出会(であ)えたらそれでもいいか。そういえば、()っからの善人(ぜんにん)というのにもお()にかからなくなったなあ?まあ(こころ)(たい)らな(ひと)出会(であ)えたらそれで()しとしよう。(こころ)平ら(たいら)(ひと)は、その()しのぎで自分(じぶん)意見(いけん)をコロコロ変えたりしないから、安心(あんしん)してつきあえる。近頃(ちかごろ)はこういう(ひと)も少なくなったね」と。
 
〔 親御さんへ 〕

常に変わらぬ心映えの事を「恒心(こうしん)」と云いますが、小学生に恒心を持て!というのもちょっと酷な話しでしょう、自己形成の途上ですから。ただ、間違った考えや邪な考えを起こした時は、ピシャリ!と叱っておかないと、言い逃れや言い繕いが習い性になってしまいますから、褒める時は褒め・叱る時は叱る!これが肝腎ですね。
 

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