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原文
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作成日 2004年(平成16年)4月から7月 |
子曰、齊一變、至於魯。魯一變、至於道。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、斉一変せば魯に至らん。魯一変せば道に至らん。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「斉がもう少し変化を遂げれば、魯ぐらいになるだろう。魯がもう少し発展すれば、理想的な国になれるのだが・・・」と。
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〔 解説 〕 |
斉は周創建の功労者で、文王・武王二代に仕えた太公望の建てた国。魯も周創建の功労者周公旦(武王の弟)の建てた国で、ともに周王朝を宗主に仰ぐ姉妹国同志でありますが、国風はかなり違っておりまして、魯が質実剛健を重んずる野暮ったい農業国家であったのに対し、斉は殖産興業を重んずる洗練された商業国家であったようです。
今日釣名人の事を「太公望」と云いますが、語源は斉の始祖太公望と文王の出会いの故事から来ております。太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)、姓は崔(さい) 名は呂(りょ) 字は子牙(しが)。
太公とは文王の祖父に対する尊称で、太公のお告げで文王が呂尚と出会えたことから、「太公望」という称号が与えられた、とあります。(史記・斉太公世家)太公望は、兵法書「六韜(りくとう)」・「三略(さんりゃく)」を残したとされておりますが、後世の仮託でしょう。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「斉の国がもう少し道徳を重んじたら、我が魯国のようになるだろう。我が魯国がもう少し発展すれば、理想の国になれるのだがなあ・・・」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
斉の国の始祖は太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)という人物ですが、今日釣名人を「太公望」と称する由来は、次の故事から出ております。
「呂尚は貧乏で、年老いた時に、魚釣をしていて周の西伯(せいはく)(後の文王)に知られることとなったようである。西伯が猟に出ようとして、卜(うらない)を立てた所、結果は『猟の獲物は竜でもなく、蛟(みずち・大とかげ)でもなく、虎でもなく、羆(ひぐま)でもない。其の獲物は覇王の輔(たすけ)である』と出た。
西伯が猟に出ると、はたして渭水(いすい)の北で呂尚に出会った。西伯は共に語り合って大いに喜び、“我が祖父太公のお言葉に『ある聖人がゆくりなくも周に来られ、周はその力で勃興するであろう』と仰せられたと伝えられている。そなたこそまことにその人であったか。”と云い、呂尚に太公望の称号を与え、車に同乗させて一緒に帰り、師と仰ぐことにした」。
この時太公望は既に八十才を過ぎていたと云われますから、恐ろしくタフな人物だったようです。魚どころか天下を釣り上げた訳ですから、大物釣の名人を太公望と称するようになったんですね。
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