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原文
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作成日 2004年(平成16年)4月から7月 |
仲弓問子桑伯子。子曰、可也簡。仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民、
不亦可乎。居簡而行簡、無乃大簡乎。子曰、雍之言然。
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〔 読み下し 〕 |
仲弓、子桑伯子を問う。子曰わく、可なり、簡なり。仲弓日わく、敬に居て簡を行い、以て其の民に臨まば、亦可ならずや。簡に居て簡を行うは、乃ち大簡なること無からんや。子曰わく、雍の言然り。
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〔 通釈 〕 |
仲弓が子桑伯子の人物評を問うた。孔子は、「まあまあだな。何事にもこせこせした所のない大まかな人物だ」と云った。
仲弓は、「身を持するには細心の注意で、人に処するには大まかでこせこせしないというのなら分かりますが、自分に対しても人に対しても大まかでは、大まか過ぎて締まりがなくなってしまうのではないでしょうか?」と尋ねた。孔子は、「なるほど、お前の云う通りだ」と答えた
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〔 解説 〕 |
子桑伯子 不明。自分に甘く人に厳しくなってしまうのが、我々凡人の性(さが)のようですが、仲弓の云わんとする所をまとめてみますと、次の四通りになりましょうか。
1、居敬而行簡(敬に居て簡を行う)
・・・自分に厳しく、人に寛大 これが第一等。
2、居敬而行敬(敬に居て敬を行う)
・・・自分に厳しく、人にも厳しい 第二等。
3、居簡而行簡(簡に居て簡を行う)
・・・自分に寛大、人にも寛大 第三等。
4、居簡而行敬(簡に居て敬を行う)
・・・自分に寛大、人には厳しい 論外の人物。
仲弓に云わせれば、子桑伯子は第三等の人物ということですね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の仲弓が、大物と評判の高い子桑伯子の人柄について質問した。孔子様は、「中々いい人物だね。何事にも大まかな所がいい!」とおっしゃった。仲弓は、「何事にも大まかなことは良いかも知れませんが、万事に大まかであったら、ちょっとだらしなくありませんか?」と問うと、孔子様は、「なるほど、そう云われれば君のいう通りだ!」とおしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
「大らか」も「大まか」も、共にこせこせしないという点では似ておりますが、大分ニュアンスが違います。大らかと云うと、心が広くて屈託がないことを意味し、大まかと云うと、大雑把で粗略なことを意味する。
大らかな人は、押さえるべき所はちゃんと押さえておりますから、肩も凝らず安心して付き合えますが、大まかな人は、味噌も糞も一緒くたですから、肩は凝らないけど、「この人大丈夫だろうか?」と、一抹の不安を覚えますね。
万事に大まかな人が自力で成功したという話しは、聞いたことがありませんが、ならば大まかな人間はすべてダメかというと、世の中良くしたもので、こういうのに限ってどういう訳かしっかり者の奥さんをもらって結構うまくやっている。所謂「アゲマン」ですね。
自力はともかく、他力でうまく行ってしまうんですな。ですから、大まかな男は、大雑把で粗略な性格を矯め直すことにエネルギーを費やすよりも、アゲマン探しに全精力を集中した方がいいかも知れませんよ。
エッ?大まかな女(おなご)はどうしたら良いかですって?決まってるじゃあないですか、「アゲチン」否、しっかり者の男を捜して、玉の輿(こし)に乗ることですな。顔は二の次です。愛嬌だけでもそこそこ勝負できるんですよ、女性はね。頭は海綿でも。だから愛嬌のある女(おなご)になりなさい。ああ皆さんは心配することない!大雑把で粗略な人間、つまりデリカシィーのない人は、そもそも論語になど興味を示しませんから。
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