公冶長第五 097

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原文         作成日 2004年(平成16年)2月から3月
或曰、雍也仁而不佞。子曰、焉用佞。禦人以口給、憎於人。
不知其仁、焉用佞。
 
〔 読み下し 〕
(ある)るひと()わく、(よう)や、(じん)にして(ねい)ならず。()(のたま)わく、(いずく)んぞ(ねい)(もち)いん。(ひと)(あた)るに口給(こうきゅう)(もっ)てすれば、屢々(しばしば)(ひと)(にく)まる。()(じん)()らず、(いずく)んぞ(ねい)(もち)いん。
 
〔 通釈 〕
ある人が、「雍は仁者だが、残念ながら弁舌の才がない」と評した。これに対して孔子は、「何も弁才などなくても良い。人に対して舌先三寸で言いくるめようとすれば、しばしば人に憎まれるのが落ちだ。雍が仁者であるかどうかは知らぬが、弁才などなくても良いのだ」と云った。
 
〔 解説 〕

雍 姓は冉(ぜん)、名は雍(よう)、字は仲弓(ちゅうきゅう)。徳行の人、十哲の一人。寡黙でどっしりと落ち着いた人だったようですが、家語の「弟子行」に、子貢が仲弓を評して「貧に在ること客の如く、その臣を使うに借りたるが如く、怒りを遷(うつ)さず、怨みを深くせず、旧罪を録せざるは、これ冉雍の行なり」と述べておりますから、相当に出来た人物だったようです。

以前、明末の儒者呂新吾の著した「呻吟語」の中から、「深沈厚重は是れ第一等の資質。磊落豪雄は是れ第二等の資質。聡明才弁は是れ第三等の資質」なるものを紹介したことがありますが、仲弓は深沈厚重の第一等の人物だったようですね。現代は、頭が切れて弁が立つ、所謂「聡明才弁」タイプを一流の人物と勘違いしているようですが、これは三流なんですね、本当の所は。
 

〔 子供論語  意訳 〕
ある(ひと)門人(もんじん)冉雍(ぜんよう)人柄(ひとがら)について、「立派(りっぱ)(ひと)だが、口下手(くちべた)なのが(たま)(きず)だな」と()った。これを()いた孔子(こうし)(さま)は、「(なに)口達者(くちたっしゃ)である必要(ひつよう)などない。口先(くちさき)だけで(ひと)()いくるめようとすれば、(あと)(かなら)(にく)まれるものだ。口先(くちさき)よりも真心(まごころ)(ほう)大切(たいせつ)なんだよ!」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕
京都大学霊長類研究所の正高信男教授が、「ケータイを持ったサル」という面白い本を書いておられます。正高先生によりますと、現代人は進化するどころか、限りなくサル化(退化)しているそうで、その原因はどうも子離れしない母親にあるようだ、と述べておられます。

子を持つ母親の面接調査をやると、殆どのお母さんが「私は思いっきり子供を可愛がるようにしています。動物だってそうしているじゃないですか!?」と答えるので、先生が「その主張は表面的には説得力を持っているけれども、人間は動物的な水準の養育を受けるだけでは、サルの一員としてのヒトになるだけで、人間の一員としてのヒトにはなれませんよ!」と云うと、「それで何が悪いんですか?私は子供の為を思ってやっているんですから!」と、二言目には子供の為・子供の為というのが錦の御旗になっているそうでありまして、この錦の御旗が却って子供を壊す結果になっている、手をかけ過ぎて子供をダメにしている、ということです。愛のない知は「不毛の知」ですが、知のない愛は「無謀の愛」という他はありませんね。
 
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