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原文
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作成日 2003年(平成15年)11月から12月 |
子曰、事父母幾諌。見志不從、又敬不違、勞而不怨。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、父母に事えては幾くに諌む。志の従われざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「父母に諌言する際は、ストレートに言わず遠回しにやんわりと云うようにしなさい。もし諌めが聞き入られなくても、あからさまに逆らってはならん。親がトンチンカンなことを云っても、黙って聞いてやりなさい」と。
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〔 解説 〕 |
目上の人を諌めるのは本当に難しいもので、ストレートに指摘すると、大概は反発をくらってしまいます。目下の者からストレートに非を指摘されて、気分の良い人は居りませんから。
こういう場合は似たようなケースの故事を引いて喩え話をすると、「お前はこう云いたいんだろう?分かった分かったもう云うな!」となって、案外聞き入れてもらえる事が多い。
「指桑(しそう)罵槐(ばかい)・桑を指差して槐(えんじゅ)を罵る」という格言が兵法三十六計にありますが、日本語で云えば「当て擦り(他の事にかこつけて遠回しにその人に当て付け指弾する)」になりましょうか。
故事を引いて指桑罵槐をやられると、ストレートに云われるより効くんですよ、これが又。殊に公衆の面前でやられると、効果覿面ですね。故事に喩えられると人間は弱いものなんです、良い事でも悪い事でも。故事とは昔実際にあった有名な話しで顛末がはっきりしておりますから、それに自分が喩えられるというのは、先が知れてるってことですからね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおしゃった、「人の話は最後まで良く聞きなさい。疑問に思うことがあったら、話が終ってから手を上げて質問しなさい。自分で良く判断できないことは、親の意見に従いなさい。お父さんやお母さんは君の何倍も生きているのだから、そう君の大先生なんだよ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
この章は、通釈文に添って意訳しても、小学生の子供にはさっぱり意味が分からんでしょう。親を諌めるなどどいうのは、相当大人にならなければできるものではありませんし、親の我が侭を黙って聞いてやれなどといわれても、ピンと来ないでしょう。まあこの程度の迷訳で勘弁してください。
孫が8才で九々を習い始めた所ですが「8才×7=56才、ジッタンはるかの7倍も生きてるんだ?だから何でも知ってるんだね!」と、くすぐったいようなことを云っておりましたから、九々が分かればこの意訳で通じるようです。
昔の人は、小さい頃から素読の習慣がありましたから、「子供論語」など作っても無用の長物と云われたでしょうが、今は子供に論語の素読をやらせる習慣がありません。高校に行って漢文の時間に初めて「論語」に接する訳ですが、ちょっと遅いんですね。
小学校に入って字が読めるようになったら、音読させてみるのに最良のテキストが「論語」ではないかと思います。読み下し文と意訳文を大きな声で朗読させてみるのです。そう思って、こうやって冷や汗をかきながら「子供論語」を編んでいる訳ですが、こういう文章に出くわすと、本当に疲れますね。
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