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原文
〕 作成日 2003年(平成15年)11月から12月 |
子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。
曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、参や、吾が道は一以て之を貫く。曽子曰わく、唯。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂ぞや。曽子曰わく、夫子の道は、忠恕のみ。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「参(しん・曽子の名)よ、吾が人生は一つの使命で貫かれているのだよ」と。曽子は「はい、承知しております!」と答えた。孔子が退出するのを見計らって同席していた他の門人が、「曽さん、今の話はどういう意味ですか?」と問うた。曽子は、「先生の人生は忠恕、つまり、救世の使命で貫かれているんですよ」と答えた。
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〔 解説 〕 |
孔子が「一以て之を貫く」と述べている場面は、論語の中で二箇所あります。一つはここと、今一つは衛霊公第十五(仮名論語228頁)「賜(し)や、女(なんじ)は予(われ)を以て多く学びて・・・」の章で。子貢に対して語っております。
孔子が弟子達に語る時は、常に本人の性分や理解力に合わせて、様々な喩えを引きながら分かり易く説いているのですが、「一以て之を貫く」と語る二箇所に限っては、まるで謎かけ問答を聞いているようです。
頭が切れて弁の立つ子貢でも、師の想いを洞察できなかったようですが、曽子は「忠恕」ととった。忠恕とは、一般には「まことと思いやり」或いは「真心」と解されておりまして、仁の一つのあり方と考えても間違いではありません。
徳はすべて仁ベース、仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての知・仁あっての信であるとは、再三再四述べて来た所でありますが、そのすべての土台(ベース)である仁にも深さの階悌があって、掘った仁(土台)の深さに見合うだけの高さの柱と屋根しか乗せられない、つまり仁の深さ、それが只今現在のあなたの正体である!と、〈序〉の「論語開眼」で申し上げました。
では、仁の深さにはどのような階悌があるのかと申しますと、
B1・第一段階 『孝悌(こうてい)』
親に孝行目上に悌順「目上を敬う仁」。
B2・第二段階 『恭敬(きょうけい)』
恭しくて敬しみ深い「友人・同僚を思いやる仁」。
B3・第三段階 『忠恵(ちゅうけい)』
忠(まめ)やかで恵み深い「目下を生かす仁」。
B4・第四段階 『寛恕(かんじょ)』
寛大で恕(ゆる)し受け入れる「広く人を許す仁」。
と、ここ迄は前にも述べて来ましたからご理解頂けると思いますが、仁にはもう一段深いものがあるようで、それがこの章で云う「忠恕」、まことの魂・思いやりの
魂・真心の魂のような仁、即ち「究極の仁」とでも云うべき「救世の仁」であるようです。
人類を照らし、世を照らし、時代を照らす仁。民族を超越し、国家を超越し、歴史を超越する仁。まあ喩えてみれば、釈迦の「慈悲」・イエスの「愛」に相当するのが、孔子の「忠恕」と考えて良いのではないかと思います。従って、
B5・第五段階 『忠恕(ちゅうじょ)』
まことと思いやりの塊「救世の仁」。と、なりますが、
さすがに孔子もここ迄は弟子達に求められるものではないと思ったのでしょう、「一以て之を貫く」と、曖昧な表現をする他はなかった。凡庸な魂の持ち主が自らを救世主と勘違いすると、麻原彰晃みたいなことになりかねませんからね。分かる者には分かるだろう!?という心境だったのではないでしょうか。分かったのは曽子だけだったようです。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおしゃった、「参(曽子の名)よ、私はいつも一つの願いを抱いているのだよ」と。曽子は「はい!」と答えた。孔子様が帰った後で、一緒にいた門人達が、「曽さん、先生の今のお話しはどういう意味ですか?」と質問した。曽子は、「先生は、皆が幸せに暮せるようにといつも願っておられるのです」と答えた。
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〔 親御さんへ 〕 |
解説でも述べましたように、「忠恕」とは、まことと思いやり或いは真心と解するのが一般的ですが、なぜ私が「救世の使命」「救世の仁」ととったかと申しますと、微子第十八(仮名論語285頁)で孔子は、「吾斯(こ)の人の徒(と)と興(とも)にするにあらずして、誰と興にかせん(この世の人々と共に生きずして、一体誰と共に生きようと云うのか)」と語っておりまして、隠棲などせず、敢えて世俗の中に身を置いて世の中を変えて行こうとする、救世の情熱が感じられるからです。
孔子は公治長第五(仮名論語50頁)で「道行われず、筏(いかだ)に乗りて海に浮かばん」と語っておりますから、世俗の喧騒から逃れたいという気持ちもなかった訳ではないようですが、生涯「世と共に生き、人と共に生きる」道を選んだ。亦、孔子から、「世の為人の為」などという思わせぶりな態度は些かも感じられません。
「世と共に、人と共に必死に生きた」一人の男の生きざまを記録したものなんですね、論語は。「為に生きる」ことよりも、「共に一体となって生きる」ことの方が、より切実で本物の生き方のような気がします。
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