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原文
〕 作成日 2003年(平成15年)11月から12月 |
子曰、朝聞道、夕死可矣。
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〔 読み下し 〕 |
子日わく、朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「朝、真理(人間存在の実相)を聞いて悟ることができたなら、夕方に死ぬことになったとしても、悔いはない」と。
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〔 解説 〕 |
ここで云う道とは、「真理」のこと。道を、人の踏み行なうべき正しい道・人倫の道と解釈しても間違いではありませんが、孔子は先王の教えや自らの多難な人生から、人の踏み行なうべき人倫の道を良く知った人でしたから、解釈としては軽過ぎると思います。死んでもいい!と云う位ですから、相当のことに違いありません。
老子の講義の中で、老子は暗在系(目に見えない世界)の真理を説き、孔子は明在系(目に見える世界)の真理を説いたが、これは使命の別があったからで、真理の道・人間完成の道から見るならば、孔老一対・明暗一対と捉えるべきであって、孔子教学対老子教学の対立的構図として捉えるべきではない!と申し上げました。今一度整理してみますと、
真理の道・人間完成の道 |
老子教学の特徴 |
孔子教学の特徴 |
一、聖人の学
(覚醒の学)
二、覚りの学 (覚識の学)
三、個人救済の学 (人間解放の学)
四、暗在系の学 (目に見えない世界の学)
五、感性・悟性の学 (直覚感得の学)
六、無為自然の学 (本来あるがままの学)
七、超脱の学 (踊り場志向の学)
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一、君子の学
(リーダーシップの学)
二、修己治人の学 (膽識の学)
三、集団救済の学 (社会秩序の学)
四、明在系の学 (目に見える世界の学)
五、知性・理性の学 (思考体得の学)
六、有為勉励の学 (切磋琢磨の学)
七、超克の学 (上昇志向の学)
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孔老一対 |
孔子は、暗在系の真理を是非とも知りたいとずーっと思い続けていたのでしょう。述而第七に「我に数年を加え、五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」とありますし、史記・孔子世家に、孔子晩年「易を読むに韋編(いへん)三たび絶つ」(易経を読み耽って、竹簡を綴じている皮紐が何度も切れた)とありますから、「周易」から宇宙の理法や人間存在の実相を懸命に学び取ろうとしていたのでしょう。しかし、易からだけでは真理を極められなくて、「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」とポツリと漏らしたのではないかと思います。
孔子は自ら「六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」と、自分の人生を回想して語っておりますから、明在系の真理、つまり、人倫の道は極めていたようです。
11年前の原稿では、道を人倫の道と解して通釈しておりますが、まだまだ尻が青かったんでしょうね、あの頃は。二年間老子をやったお陰で、又違った角度から論語を読めるようになった気が致します。これも論語の持つ魔力の一つなのでしょうが、「論語読みの論語知らず」とは、本当に良く言ったものです。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「人間は皆神の子であって、猿の子孫ではない!だから君達一人一人の心には神様と同じ種が宿っているんだよ。もし困ったことが起きたら、神様だったらどうされるだろうか?と考えてから行動しなさい!後に悔いを残さないためにもね」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
この章を子供でも分かるように、一体どんな風に意訳するのだろうか?と、興味津々だった方もおられるのではないでしょうか。最初は「朝本当のことを知ったら、夕方死んでもかまわ
ない。それ位本当のことを知るというのは、大切なことなんだよ」と訳して、どうだ分かるか?と孫に聞きましたら、「死にたくないから、本当のことは知らなくていい!」と云いますので、「本当のことを知りたくないか?」と問いますと、「死んだら元も子もないじゃん!?」と一蹴されてしまいました。
「人が死んだらどうなるか分かるか?」と重ねて問いますと、「分かるよ。骨になるんだよ。そんなことも知らないの?ジッタン!?」と来た。これでは勝負あったですから、一日間を置いて表記の意訳にしましたら、「フーン、人は神の子なんだ」と云っておりましたから、何とかニュアンスは感じ取れたのでしょう。
こういうことは、大人よりも子供の方がストーンと腑に落せるようですね。「パパとママの子じゃないんだ?」と聞いてくる子もいるでしょうが、その時は「神様は体を持たないから、パパとママの体を借りてお前が生れたんだよ。だからパパとママの子でもあり神の子でもある!」と云えば納得します。
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