八佾第三 047

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原文                 作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
子曰、君子無所爭。必也射乎。揖譲而升下、而飮。其爭也君子。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、君子(くんし)(あらそ)(ところ)()し。(かなら)ずや(しゃ)か。(ゆう)(じょう)して(のぼり)(くだ)り、(しこう)して()ましむ。()(あらそい)君子(くんし)なり。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「君子は人と争うことを好まない。もしやるとすれば、弓の競射位のものであろうか。その際にも極めて礼儀正しく、堂に上って矢を射ては堂から下りる。勝負がついたら負けた方が罰杯を受ける。勝っても負けてもこだわらない。これが君子の競争のやり方である」と。
 
〔 解説 〕

揖譲とは、左右の手を胸の前で組んで会釈するスタイルのこと。射は当時君子の嗜みとされた六芸の一つ。

  六芸(りくげい)・・・礼・楽・射・御・書・数。
  

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった「君達(きみたち)はケンカをしてはいけないよ。オレがオレがとやるからケンカになる。お(さき)にどうぞ!と(ゆず)ればケンカにはならない。(ひと)(ゆず)気持(きもち)、これが大切(たいせつ)だね」と。
 
〔 親御さんへ 〕

(どう)と名の付くもの、喩えば「剣道」・「柔道」・「弓道」・「華道」・「茶道」・「書道」等、免許皆伝というか、奥義を極める為の修練法を守・破・離と云います。

「守・しゅ」とは、原理原則・基本を身に付けること。「破・は」とは、応用変化を試みてみること。「離・り」とは、今一度原理原則に戻り、そこから独自の境地を切り開くこと。の意味ですが、何事も基本(オーソドックス)あっての応用変化(アレンジ)であり、創造(オリジナル)である訳です。

只今現在、基本中の基本を学ぶ人生の入門コースをやっている小学生は、「守」の入口段階にある訳ですから、一番大切な時期なんですね、ここが。

まあ、人生を一つの修業過程と捉えてみれば、個人差はありますが、0才〜20才位迄が「守」、20才〜40才位迄が「破」、40才〜60才位迄が「離」、60才過ぎたら「通・つう」(変通自在)、80才も過ぎたら「融・ゆう」(融通無碍)となってこの世とおさらばできれば、悔いのない人生ってことになるのでしょうが、中々うまく行かんようですね。
 

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