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原文
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作成日 2003年(平成15年)5月から7月 |
子曰、吾與回言、終日不違如愚。退而省其私、亦足以發、回也不愚。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、吾回と言う、終日違わざること愚なるが如し。退いてその私を省みれば、亦以て発するに足る。回や愚ならず。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「私が顔回(がんかい)と話しをすると、一日中ハイハイと聴いているばかりで、まるで手応えがないものだから、こいつは馬鹿か?と思ってしまいます。しかし、退出した後の私生活を観察すると、私の云ったことに発奮興起して自己研鑽に励んでおる。どうしてどうして、顔回は馬鹿どころではない」と。
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〔 解説 〕 |
顔回とは弟子の顔淵(がんえん)のこと。徳行(徳の実践)第一の人物。孔門十哲の一人で、孔子も自分の後継者として期待していたようですが、栄養失調による免疫不全が原因だったのでしょう、孔子よりも先に亡くなってしまいます。(顔淵の食事は、一杯の飯に一杯の汁が常で、おかずは何もなかったようです)
顔淵の父顔路(がんろ)も孔子の門下生でありました。孔子も内心では顔淵の生活が気になったのでしょうが、父が居ることでもあり、差し出がましいお節介は控えたものと思われます。
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〔 一言メッセージ 〕 |
『糠に釘・暖簾に腕押し・馬耳東風は、猫に小判・豚に真珠と成り果てるかな』
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「私が弟子の顔回と話しをしても、一日中はいはいと聴いているだけで、少しも手応えがない。この子はちょっと足りないのではないかな?と心配してしまうのだが、家に帰ってからの顔回の様子を見ていると、教わったことを理解できるようになるまで何度でも復習して、次の日にはちゃんとマスターして登校して来る。この努力が立派な人間をつくるんだね」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
イソップ物語に「アリとキリギリス」や「ウサギとカメ」など、こつこつと努力した者が最後には勝利するという、誰でも知っている話しがありますが、「自由の道と奴隷の道」という、大変示唆に富んだお話しもあります。
曰く、『昔、神様は人間に二つの道を与えました。自由の道と奴隷の道です。この二つの道を設け、どちらを行くかは人間に選ばせたのです。
自由の道の方は、岩がゴツゴツしている山道で、水もなく、おまけにイバラのトゲが一面に生えている為、危険で、前進するのがとても大変そうです。しかし、最後には広い散歩道になっていて、美味しそうな木の実が沢山なり、清らかな泉も湧いていてオアシスのようになっています。
もう一方の奴隷の道は、始めのうちは広く平坦で、花も咲き、木の実がなり、小川も流れ快適に進むことができますが、最後は崖の細い道になっており、足をちょっと滑らせたら谷底に落ちてしまう危険な場所を通過しなければならないのです』と。
「若い時の苦労は買ってでもやれ!」と昔から云われますが、若い時に楽をしたツケは、いずれ払わなければならないようになっているものなんですね、残念ながら。
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