〔原文
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作成日 2003年(平成15年)3月から
4月 |
子曰、君子不重則不威。學則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、君子重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「リーダーは、どっしりと構えていないと威厳が感じられず人に侮られる。だから
学問をしてものの道理を弁え、意固地(野暮こき)にならないようにしなさい。友達とは
誠心誠意付き合い、友情の通じない人は避けなさい。もし過ちがあったなら、見栄や面子にこだわらず、即刻改めなさい」と。
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〔 解説 〕 |
人間は過ちを犯す生きものです。これはある程度仕方がない。完璧な人間など居りません
からね。ただ、過ちにも、知らないで犯してしまう過ちと、悪いと知りながら犯してしまう過ちの二種類がありますが、皆さんは一体どちらの方が質(たち)が悪いと云うか、罪が重いと思い
ますか?
刑法では、知って犯す過ちを故意と云って、知らずに犯す過ちつまり、過失よりも重いとされておりますが、人間真理から眺めて見た場合、果たしてどうですか?勿論故意であろうが
過失であろうが、過ちは過ちですから、どちらも悪いことには違いありませんが、さてどっちが罪深いか?となったら、どうですか!?
答えはもうはっきりとしているんですね、知らずに犯す過ちの方が断然重いと。釈迦は弟子
から同様の質問を受けた際、はっきりと答えております、「知らずに犯したる罪は、知って犯したる罪に百倍す!」と。さあどうですか?そうだ!という顔をしている人が半分、どうして?と
いう顔をしている人が半分いますかね。
知らずに犯す過ちというのは、それが過ちであることすら分からない、つまり、善悪の道理が
分からない訳ですから、反省することができません。反省することができなければ、改めて
みようがありません。本人は少しも悪いと気付いていないのですから、改めようなどという気が起きないのですね。かくして本人は気付かぬまま、日々周囲に悪臭を撒き散らすことと相なる訳ですが、周りは大迷惑しますね。善悪の道理の分からないことを「無明(むみょう)」と申しますが、無明とは明き盲のことです。所謂「野暮こき」ですね。
ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と云ったそうですが、一人の人間が一生のうちで実際に経験できる範囲は、質・量ともにたかが知れております。たかの知れた経験則から、道理を見極めたり善悪を判断したりすることには、自ずと限界がある。井の中の蛙のようなものですね。これを補う為に学問がある訳です。学問をして先人の知恵に学ぶ・歴史の教訓を疑似体験する訳です。だから孔子は、「学べば則ち固ならず・
学問をして道理を弁え、野暮をこいちゃあいけないよ!」と云った訳ですね。
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〔 一言メッセージ 〕 |
『無理が通れば、道理が引っ込む。野暮を通せば、情理を失う』
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「君達!おっちょこちょいではいけないよ。人にばかにされるからね。しっかりと勉強して、幅広い知識を吸収しよう。友情を大切にして、良いことは良い・悪いことは悪いと正直に言い合える仲間をつくりなさい。もし自分に間違いがあったら、言い訳をせず素直にあやまりなさい」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
釈迦と弟子の問答の中に、次のようなものがあります。弟子「先生、知りて犯したる罪と知らずに犯したる罪と、どちらが重いでしょうか?」釈迦「お前はどう思うのだね?」弟子「それは
知って犯した罪の方が重いに決まっています。だって悪いと知りながらやったのですから」
釈迦「否!知らずに犯したる罪は知りて犯したる罪に百倍す!」
弟子「どうしてでございますか?」釈迦「知りて犯したる罪には自ずと限度というものがある。
又、咎められれば反省もできる。反省できれば悔い改めることができる。しかし、知らずに
犯す罪には限度というものがない。場合によっては極限迄行ってしまうこともある。
更に、咎められても反省することができない。本人は悪いことをやっている自覚がないのだ
から。反省できなければ悔い改めることができず、際限なく罪を犯してしまうのだ。人として
何が最も罪深いことかと云えば、無明(むみょう)(善悪の道理が分からないこと)ほど罪深い
ことはないのだ」と。
私達は、人に傷付けられることに対しては敏感ですが、人を傷付けることに対しては誠に鈍感です。態度で言葉で行動で、気が付かずにどれほど多くの人を傷付けているか、考えてみたことがありますか?
大抵の人は、自分に似た性格の人を見ると嫌いになると聞きますが、何故かと考えてみますと、自分が自分で嫌だと思うことを、その人が目の前でそっくり演じて見せてくれているから
なんですね。何のことはない、本当はその人が嫌いなのではなく、相手に映し出された自分の姿を嫌いになっているだけなのです。「人のふり見て我がふり直せ」という俗諺がありますが、嫌だな!?と思う気持ちを相手に向けずに、自分自身に振り向けてみれば、少しは反省の縁(よすが)になるのではないでしょうか。
「三つ子の魂百まで(幼い時に刷り込まれた性格は一生変わらない)」と云われますが、
放ったらかしにしておけば確かにその通りですが、自覚して変えようと思えば、自助努力で
ある程度迄は変えられます。矯め直せるのです。まあ、「三つ子の魂百まで」は親の責任、「人のふり見て我がふり直せ」は自己の責任という所ですね。
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