〔原文〕
子貢日、君子之過也、如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之。
〔読み下し〕
子貢曰わく、君子の過や、日月の食の如し。過つや人皆之を見る。更むるや人皆之を仰ぐ。
〔新論語 通釈〕
子貢云う、「君子と雖も過ちがない訳ではないが、少しも隠し立てすることがないから、日食や月食のように万人の目に明らかである。しかし、過ちに気付くと言い訳することなく直ちに改めるものだから、人々は一層仰ぎ見るようになるのである」と。
〔解説〕
学而第一008章の「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」・
衛霊公第十五418章の「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」を始め、「過ち」についての話題が十本近く論語に収められております。
本章もそのうちの一本ですが、子貢は君子(身分の高い人・出来た人物)の過ちを日食や月食に喩えている、隠し立てしないと。今でこそ、日食は太陽と地球の間に月の軌道が入って起こる現象、月食は太陽と月の間に地球の軌道が入って起こる現象であることが分かっておりますが、2500年前にはどのように理解されていたのでしょうか?
古代中国では天体観察が発達しておりまして、黄道に沿って天球を二十八に区分した「二十八宿」が作られていた。勿論この頃は天動説ですが、二十八宿の日月星辰の配列で吉凶を占っていた。とりわけ箒星と日食は、天罰が下る凶兆と考えられていたようです。
〔子供論語 意訳〕
子貢が弟子に向かって、「人は誰でも間違うことがあるが、君達は間違いに気づいたら、隠したりごまかしたりせず、素直に間違いを認め、すぐに改めなさい。そう、日食や月食は欠けることがあっても、すぐ元にもどって堂堂と光り輝いているように。こうすれば君に対する信頼は一層深まる。正直な人だ!と」と云った。
〔親御さんへ〕
自分の非を認めたくないという気持は、大なり小なり誰にでもあると思うのですが、これは自己防衛本能の一種でしょうか?それとも見栄や面子から来るものでしょうか?或は生後身につけた悪しき習慣でしょうか?
万人が素直に自分の非を認め、直ちに改める習慣が身についていれば、非を認めて改過する様を取り立てて潔く立派な態度だなどと云わんでしょう、当たり前のことだから。中々こうはできないから、潔く立派な態度だと子貢も云っている訳ですね。
非を認めるか認めぬかの前段階に、過ちに気づくか気づかぬか?という過程がある訳ですが、気づかなければ死ぬ迄同じ過ちを繰り返し、死んでからその過ちに気づかされることとなります、否でも応でも。これは辛い、魂が丸裸の状態で、これでもか!これでもか!と気づくまで同じ場面が
繰り返されますからね、百年でも二百年でも、あの世で。
問題は、この世で既に過ちに気づいているのに、非を認めて改めようとしない場合です。これは自分で自分に嘘をついていることになります。最近の脳科学の発達で、人間は自分にだけは絶対に嘘をつけないということが「脳指紋」の研究で解明され、嘘発見器に応用されることになったそうです。(百発百中らしい)
過ちに気づくということは、心では既に非を認めている訳ですが、それを脳が頑なにこれを拒み続けていれば、当然猛烈なストレスを生むことになる。ストレスは免疫能を破壊します。ガンコな人はガンになり易いと云われますが、心がイエスと肯定しているのに脳の指令で口がノーと否定したり、逆に、心がノーと否定しているのに口がイエスと肯定したりしていれば、それはそれは
でストレスが溜まって免疫力が落ちますよ、自己の内部で心と脳が喧嘩をしているようなものですからね。
これを一般に「不調和」と申しますが、不調和は万人に備わっている自己治癒(セルフヒーリング)の力を削いでしまうことになる。最近、アロマセラピー・オーラソーマ・フラワーエッセンス・パワーストーン・気功・レイキ等々、癒し系のビジネスが脚光を浴びているようですが、これらはどれも本来自分の持つ自己治癒力を引き出す為の呼び水効果であって、不調和そのものを解消する訳ではない。
心と体(脳)の不調和は自分自身で解消する他はありません。外物に頼ってもダメなんですね。外物は呼び水の役としてのみ有効なんです。補助的手段に過ぎないのです。ここを勘違いしてはいけません。
あっちこっちと癒しのハシゴをしている人、多いですよ!最近。蒔かぬ種は生えぬのだし、蒔いた種は自分で刈り取らねばどうにもならないようになっているんです、原因・結果の法則は誰も逃れられないのです。喜びの種を蒔くか?苦しみの種を蒔くか?はあなた次第、誰の責任でもありません。自分自身にもっと潔くありなさい!
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