〔原文〕
子路日、君子尚勇乎。子日、君子義以爲上。君子有勇而無義爲亂、
小人有勇而無義爲盗。
〔読み下し〕
子路曰わく、君子勇を尚ぶか。子日わく、君子義以て上と為す。君子、勇有りて義無ければ乱を為す。小人、勇有りて義無ければ盗を為す。
〔新論語 通釈〕
子路が、「君子は勇気を尊びますか?」と問うた。孔子は、「勿論勇を尊ぶが、それ以上に義を尊ぶものだ。上に立つ者が勇ましいだけで正義感を持っていなければ、権力争いで社会秩序を乱し、下の者が勇気だけあって正義感がなければ、押し込み強盗を働くようになる」と答えた。
〔解説〕
以前、利の元は義、義の根は仁と話したことがあります。孔子は、勇もその元は義である!と云う。勇が義に基づかず面子に基づいたり、利欲に基づいたり、怨みに基づいたりすると、「暴走の勇」となってセルフコントロールが効かなくなります。
そうですねえ、面子に基づいた勇はいさかいを起こし、利欲に基づいた勇は盗みを働き、怨みに基づいた勇は人殺しに至ることもある。これらの行為に対しては、日本人ならば「義に悖(もと)ることはするな!」と一喝できるけれども、ユダヤ人やアラブ人には全く通用しません。何故か分かりますか? そう!ユダヤ教もイスラム教も、「目には目を、歯には歯を!」・「やられたらやり返せ!」とする同害報復が神の義だからです。これは質(たち)が悪い。
人の義は相対的なものですから妥協の余地があるけれども、神の義は絶対で妥協を許しません。ですから、報復が報復を呼び、復讐の連鎖は止まる所を知らない。ユダヤ教徒やイスラム教徒にとって、復讐が神の義とされている訳ですから、復讐しないのは勇気の無い臆病者、つまり、不義とされてしまう。
ここが主君に対する忠義は知っていても、神の義というものに疎い日本人には中々理解し難い所でありまして、ともに同じ神(ヤハウェもエホバもアラーも同一神、呼び名が違うだけ)を唯一絶対の神と仰ぐ兄弟民族(ユダヤの祖イサクとアラブの祖イシュマエルは腹違いの兄弟、ともに父はアブラハム)が、どうしてこんなにいがみ合わなければならんのか!?不思議で不思議でしようがない。
キリスト教徒はキリスト教徒で、イエスが山上の垂訓で「右の頬を打たれたら左の頬も出せ!」・「汝の敵を愛せ!」・「人を裁くな!」と同害報復を禁じたにもかかわらず、パウロがユダヤ教の経典(旧約聖書)もキリスト教の経典としたことから、キリスト教に同害復讐法が残ってしまった。
パウロが旧約をキリスト教の経典にすることについて、激しく反対したのがマルコ。マルコはイエスの側にいて直にイエスの説教を聴いておりましたから、旧約を経典にすべきではないことを知っておりましたが、パウロはイエスの説教を一度も聴いたことがありませんし、もと熱心なユダヤ教徒でしたから無理もなかったのかも知れません。マルコはこの後パウロと訣別して、福音書(マルコによる福音書)を書いている。これによって初めてキリスト教オリジナルの経典第一号(新約聖書)が成る。
しかしこれでは、キリスト教は自己矛盾をかかえたままになりますから、何とか論理的な整合性を計らなければなりませんが、長いこと妙案が見つからなかった。そこに登場したのが天才哲学者アウグスティヌス(AD354〜430)、彼の神学は、
一.人間は神の絶対的恩恵によってのみ救われる。
二.キリスト教教会はその唯一の救済機関。
三.この世は神の国と地の国の戦い。
とするもので、これによって
1.神の絶対的恩恵で救われるのはキリスト教徒のみ。
2.教会に従わぬものは救われない。
3.キリスト教国のキリスト教徒のみが神の国の住人で、それ以外の
異教国の異教徒は人間以下の生き物。
よって、イエスが同害報復を禁じたのは神の国の住人たるキリスト教徒に対してであって、キリスト教徒でない人間以下の生き物には適用されない。つまり、異教徒に対して同害復讐法は有効とする誠に奇妙奇天烈な論理が誕生することとなる。本来、神の無前提無条件の愛を説くキリスト教が、獰猛で独り善がりの宗教に変貌するのはこの時からです。
これが十字軍遠征―異端審問―ユダヤ人迫害―アジア・アフリカ・中南米の侵略へと繋がって行く訳です。我々日本人は、何と身勝手で理不尽なことかと思うけれど、ヨーロッパのキリスト教国は悪いどころか良いことをしていると思っていたんですね。神に救われるのはキリスト教徒だけだから、異教徒を改宗させて救済してやるのだ!と。その為なら植民地化も人種差別も正当化される、何故なら異教徒は人間以下の生き物だから。
そこに敢然と立ちはだかったのが日本。日本が日露戦争・大東亜戦争を戦わなかったら、世界の植民地は解放されず、アパルトヘイトはあと百年続いていたでしょう。
欧米では、今でも白人キリスト教徒だけが神に選ばれた優等人種であって、有色の異教徒は劣等人種であると頑なに信じている人達がおりますが、この人達が今度は深刻な自己矛盾に陥って悩んでいるのだとか。どんなことかと云うと、本当にバカみたいな話しですが、自分達が主と仰ぐイエスキリストは、金髪・青い目・白い肌を持つ白人かとおもっていたが、そうではなく、黒い髪・黒い目・褐色の肌を持つ有色人種だったからだとか!?
更にイエスの教えを伝えた十二使徒も全員が有色人種で、自分達はその名前を頂いている。(欧米人の男子の名前に多い、ジョンはヨハネ、トムはトマス、ジェイコブはヤコブ、ピーターはペテロ、アンドリューはアンデレ、フィリップはピリポ、バートンはバルトロマイ、サイモンはシモンです)
何をバカなことを云ってるんだ!イエスも十二使徒もユダヤ人、つまりセム族の子孫だから、エジプト人と見分けがつかない有色人種に決まっているじゃないか!? 少しでもキリスト教に興味のある人間なら常識だろう?と思って、父親も祖父もルーテル教会の牧師で幼児洗礼を受けている代々クリスチャンの家内に聞きましたら、「ウッソー!知らなかった。だって教会の壁画は、イエス様もマリア様も白人じゃないの!」と云いますので、「デービッド(次女の亭主でイギリス系カナダ人・アングリカン)にメールして聞いてみな?」とメールさせましたら、本人は勿論両親も兄弟も全員がイエスは白人と思っていたとのことでした。
周りに居るユダヤ人(弁護士仲間の)は皆白人なので、ユダヤ人は元々白人だと思っていた。そもそもデービツドという名も、BC10世紀のイスラエル王ダビデからとったものだ。勿論本人は知っている。ディアスポラ(離散)でヨーロッパに移住したのは、9世紀に国ごとユダヤ教に改宗した現在のアゼルバイジャン周辺に居た元ハザール王国のハザール人で、これをアシュケナジーユダヤと云い、トルコ系の白人の子孫。セム族との血の繋がりは全く無い。
セム族の血を引く本来のユダヤ人はスファラディーユダヤと云って、殆どが北アフリカ方面に移住した。シオニスト運動(ユダヤ民族の自決・イスラエルの建国)をやったのはハザールの子孫であるアシュケナジーユダヤの人達。このことは前に話したことがあるかも知れません。ですから、白人優位説など所詮はこんなものなんですな。何の歴史的根拠も科学的根拠もない、単なる無知蒙昧から来る妄想です。
話しが義から脱線しましたが、このホームページをご覧の方の中にも、イエス様は白人と思っていた方がおられるのではないでしょうか?教会の壁画はどこも白人で描かれておりますからね。アウグスティヌスだって北アフリカ出身でしょ?肌の色や宗教の違いで優位か劣位かなどきまるものではないんですよ、輪廻転生の過程で誰もが白人も有色人種も、仏教徒もキリスト教徒も経験しているのだから。因みに、白人集団から誕生した宗教は一つもありません。下らん話しで随分お手間を取らせました。
〔子供論語 意訳〕
弟子の子路が、「リーダーには勇気が大切でしょうか?」と質問した。孔子様は、「もちろんだ!勇気がなかったらリーダーはつとまらない。だが、勇気よりも大切なのは、正々堂々フェアプレーの精神だ。リーダーに勇気だけあってフェアプレーの精神がなかったら、自分だけ力んでチームワークが乱れる。チームメンバーに勇気だけあってフェアプレーの精神がなければ、組んづほぐれつの泥仕合となる」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
私の友人にユダヤ教のラビと親交のある人物がおりまして、その彼がラビに「どうしてユダヤ人とアラブ人はいつまでも泥仕合のようなことをやっているのか?」と問うたところ、ラビは、「預言に忠実でないからこんなことになっている。ユダヤ人が預言を忠実に守っていたら、こんなことにはならない」と答えたそうですが、何のことやらさっぱり分からず、「どういうことだろう?」と聞いて来ました。
私は、「ああ、そのラビは立派な人だね。ユダヤ教の預言を知りたければ、旧約のイザヤ書・エレミア記・エゼキエル書の三本を読んだらいい。他に12本の預言書があるけれど、大変だからこの三本を読めば、神エホバが預言者を通してユダヤ人(びと)に何を語っていたかが分かる。今でも立派に通用する真っ当なことを語っているよ」と答えましたが、「ふ〜ん!」と云ったきりで何の連絡もありませんから、読んでなんかいないのでしょう。
エホバの神は単に裁きの神・復讐の神だけではなかったことが分かりますし、エホバの辛抱強さには本当に舌を巻いてしまいます。たまには毛色の変わったものを読んでみるのもいい勉強になりますから、興味のある人は是非読んでみてください。真理は一つなんだなあ!?ということが分かります。ひょっとすると、孔子もエホバ(天帝)から啓示を受けていた大預言者の一人かも知れませんよ!? イエスもエホバ(天の父)から啓示を受けておりましたからね。
現代人は、何だか訳の分からぬ人間が書いた「予言書」を面白がって読んでいるようですが、そんな暇があったら一度本物の「預言書」を読んでみたらいい。(予言と預言は違います。予言とは先のことを予め云うこと、預言とは神から預かった言葉を伝えること)
特に外交や国際金融に携わっている人は読んでおいたらいい、手前勝手で理不尽な要求をして来たら、何度でも「エホバはそれを善しとされているのか!?やってはならんと命じておられるのではないか!!」と云ってやればいい。ユダヤ教徒もキリスト教徒も、エホバの神より怖いものはないのだから。
それでも止めないようなら、「神の義に背く者!」とうるさく云ってやったらいい、「もう勘弁してくれ!」と云って来ます。神の義に背く者は臆病者、義人とはされません。欧米では、表面的にでも義人を装わなければ、人に尊敬されることはありませんからね。
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