〔原文〕
子貢問曰、郷人皆好之、何如。子曰、未可也。郷人皆惡之。何如。
子曰、未可也。不如郷人之善者好之、其不善者惡之。
〔読み下し〕
子貢問うて日わく、郷人皆之を好せば何如。子日わく、未だ可ならざるなり。郷人皆之を悪まば何如。子日わく、未だ可ならざるなり。郷人の善き者は之を好し、其の善からざる者は之を悪むに如かざるなり。
〔通釈〕
子貢が、「地元の人達がこぞって好意を寄せるような人は、立派な人物でしょうか?」と問うた。孔子は、「必ずしもそうとは云い切れまい」と答えた。子貢は、「では、地元の人達がこぞって悪口を云うような人の方がむしろ立派でしょうか?」と重ねて問うた。孔子は、「それもそうとは言い切れまい。地元で一目置かれる人からは好かれるが、怪しげな人からは嫌われる人物。こういう人と付き合った方が無難ではないかな」と。
〔解説〕
こういうことをサラリと云ってしまう所が、人間通孔子の何とも云えない魅力でありまして、うっかりすると「当たり前だろう?」位にしか感じません。我々凡人は、地元の人達がこぞって褒めれば善人、こぞって貶せば悪人、と、決め付けてしまうのが普通です。しかし孔子は、こぞって○○というのは却って信用できないと云う。
普段私達は、自分はまともだと思って他人を判断しておりますから、自分と違ったことをする人を見ると、異質だと思ってしまう習性がある。しかし、コミュニティーから一歩出て大局的に眺めてみると、コミュニティーの中でまともだと考えられていたことはむしろアブノーマルで、異質だと思われていたことの方がノーマルであった、などと云うことはいくらでもある。「灯台下暗し」もあれば、「傍目八目」もある。
これは国家レベルでも云えることでありまして、海外を見てきた大久保利通と、国内しか見なかった西郷隆盛の、国家政策に関する意見の衝突にも見られます。つまり、コミュニティーでも国家でも、公平な目で見られる人と、偏った目でしか見られない人、大局的な目で見られる人と、小局的な目でしか見られない人では、その判断に大きな違いが生ずるものなんですね。
孔子がここで云う「郷人の善き者は之を好(よみ)し」の善き者とは、公平な目・大局的な目を持った人のことを指しているのでしょう。一般的な善人悪人の善人を意味するものではないようです。みんな自分のことを「善き者」だ!と思っているけれども、実際に公平な目・大局的な目で判断出来る人は、千人に一人か二人くらいしかいないものです。私義よりも公義が優先し、義にも小義<中義<大義<大大義の序列があることを知る人は、至って少ないものです。
〔意訳〕
弟子の子貢が、「町内こぞって褒めるような人は、本当に立派な人でしょうか?」と質問した。孔子様は、「必ずしもそうとは限らない」と答えた。更に子貢は、「では、町内こぞって貶すような人の方が、本当は立派なのでしょうか?」と重ねて質問した。孔子様は、「これも必ずしもそうとは限らない。町内でも一目おかれる人から褒められ、評判の悪い人から貶される人、これなら間違いなく立派な人物だろう」と答えた。
〔親御さんへ〕
「英雄郷に入れられず」と云って、身近な人程英雄の真価が分からず、奇人や変人のレッテルを貼ってみたり、時には気違い扱いすることもある。或は、身近な英雄に全く気付かずに居ることもある。これは血縁レベル・地縁レベルのみならず、人縁レベル・時縁レベルでもあります。
そうですねえ・・・、人縁レベルでいえば、ビートたけしがイタリアの映画祭で金賞を貰ったとか、サラリーマンの田中耕一さんがノーベル賞を受賞したとかはこれでしょう。時縁レベルで云えば・・・、コペルニクスの地動説を支持した為、ローマ教皇の異端審問にかけられ、異端者のレッテルを貼られたガリレオ・ガリレイ。彼が異端を解かれたのはつい最近、ヨハネ・パウロ教皇の時です。キリスト教社会では、ガリレオは実に400年以上も異端者とされていた訳です。
私達は自分ではしっかり両目を明けて生きているつもりでおりますが、本当の所は片目をつぶって生きているようなものなのではないでしょうか?片目で世の中を眺めて、分かった!と勘違いしているのではないでしょうか?
私の祖母は生前、偏った見方をすると「右目は肉眼(にくがん・愚者の眼)、左目は霊眼(れいがん・賢者の眼)、両方の目でよく見ろ!」と云って孫どもを叱ったものですが、「片目しか見えない人はどうするんだ!?」と口答えすると、「片方の目にどっちも宿る」と云いますから、「じゃあ両方見えない人はどうするんだ!?」と突っ込むと、「両方見えない人は心眼(しんがん・心の眼)が開く。心配いらない!」と云っておりました。分かっていたんでしょうかね?昔の人は。
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