〔原文〕
樊遅問仁。子曰、居處恭、執事敬、與人忠、雖之夷狄、不可棄也。
〔読み下し〕
樊遅、仁を問う。子日わく、居る処恭、事を執りて敬、人と与りて忠なるは、夷狄に之くと雖も、棄つべからざるなり。
〔通釈〕
樊遅が仁を問うた。孔子は、「家でくつろいでいる時は恭(うやうや)しく、仕事に臨む時は慎重に、人と交わる時は誠実に。この三つは、たとえどんな未開の国に行ったとしても忘れてはならんぞ!」と云った。
〔解説〕
論語の中でピンボケ樊遅が仁を問うている箇所は、本章を入れて三本あります。最初に登場するのは、雍也第六「仁者は難きを先にして獲(う)ることを後にす」。次が、顔淵第十二「人を愛す」。最後が本章ですが、時系列的な会話の順序から云えば、本章「居る処恭、…」が最初で→次が「難きを先にして…」→最後が「人を愛す」と考えたら良いのではないかと思います。
樊遅が入門したての頃は、孔子も樊遅の性格や能力をよく知りませんから、「恭・敬・忠」と一般的な応え方をした。様子を見ていると、頭は鈍いが利には聡い所があるので、「利益は後回し!」と答えた。しばらくすると、樊遅のピンボケ具合が分かったので、これは余程簡単明瞭に云って聴かせないとダメだろうと思ったのでしょう、「人を愛す」と答えた。
樊遅のような人、皆さんの身の回りにもいるのではないでしょうか?何度も同じことを聞いて来る人が。普通は、三度も同じことを聞かれると、「前に云ったじゃないか、いい加減しろよ!」と云いたくなるものですが、孔子は倦むことなく、三度とも手を変え品を変えして答えている。樊遅のことですから、三度どころか四回も五回も同じことを質問したのではないでしょうか。
〔意訳〕
弟子の樊遅が、「仁とはどういうことですか?」と質問した。孔子様は、「家でくつろいでいる時もだらしなくしない。学校での団体生活ではテキパキと。部活での集団行動ではチームワークを大切に。こうすれば、いつでもどこでも誰とでも楽しくつきあえるぞ!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
孔子はここで仁を「恭・敬・忠」の面から説いている。当会オリジナル「儒教的悟りの階梯」で云えば、第二段階「恭敬」(恭しくて敬(つつし)み深い)、第三段階「忠恵」(忠(まめ)やかで恵み深い)を述べているようです。
樊遅の意識レベルをキネシオロジーテストで測ってみると、ログ290(天上)と出ますから、第四段階「寛恕」(寛大で人を許す仁)を説いても理解できないと思ったのでしょうか?ピンボケ、ピンボケと、そう樊遅を見くびってはいけません!
ログ200の「バカの壁」はちゃんとクリアーした人物なんですからね。
樊遅の名誉の為に、ちょっといい話を紹介しておきましょう。 ・・・哀公の11年(孔子が亡命生活から魯に帰国した年)、斉が魯に攻め込んで来た時、冉求が左大将となり、樊遅が補佐官についた。李孫氏は樊遅を見て、「年が若過ぎるのではないか?大丈夫か!?」と云った。冉求は、「年は若いが私の命には忠実に従う男です」と答えた。斉軍と稷曲(しょくきょく)で対峙したが、魯の兵士は溝を渡って進もうとしない。これを見た樊遅は冉求に、「渡れないのではない。あなたの命令を信じないだけです。どうか賞罰を厳格に示して下さい」と促したので、冉求はその通りにすると、果たして軍隊は命令に従った。魯軍は斉の鎧武者の首八十を討ち取り、斉軍は潰走した・・・(左伝哀公11年)どうです?樊遅も中々やるでしょう!?
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